折口信夫『死者の書』(十九、二十)

物語は終章に向かって一気に駆け昇り、壮麗な幻が眼の前に広がって、すっと消えました。

 

圧巻のラストでした。可哀想で、言う言葉が、今は見つかりません。

 

連想したのは、ガルシア・マルケス百年の孤独』に出てくる、汚れなきレメディオスの話。最後に置いておきます。

 

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十九)上帛

 

季節は秋。満月の夜、郎女は一反の上帛(はた)を織り終えた。若人たちは、夜の更けるのも忘れて、出来栄えを褒め、見とれている。それは月の光を受け、美しく、清らかたっだ。

 

一反...11m40cm〜12m

上帛...神前に供える白いきぬ

 

二度目の機は、初めの半分の日数で仕上がった。三反織り上げたところで、姫の心に新しい不安がもたげてきて、五反織りきると、機から下りた。そして今度は、昼も夜も針を動かした。

 

長月(9月)の三日月がかかるのを見て、この夜寒に、俤人の肩の寒さを思うだけでも、堪えられなかった。

 

ただ、他人の手に触れさせたくない、という思いから、解いては縫い、縫ってはほどきした。何人分もに当たるような大きさのお身体に合う衣を縫うすべを知らなかったのだ。せっかくの上帛が、裁断したり、截(た)ったりするので、段々と狭くなっていく。女たちは、何を縫おうとしているのか、見当もつかず、ただ見ているしかなかった。

 

日増しに寒くなってきて、人々は奈良の館に帰ることばかりを願うようになっていた。ある暖かい昼、郎女は薄暗い廬の中で、うっとりとしていた。その時、語り部の尼がどこからか現れて、こう言う。

何を思案遊ばす。壁代(かべしろ)の様に縦横に裁ちついで、其まま身に纏うようになさる外はおざらぬ。それ、ここに紐をつけて、肩の上でくくりあわせれば、昼は衣になりましょう。紐を解き敷いて、折り返し被れは、やがて夜の衾にもなりまする。天竺の行人たちの著る僧伽梨(そうぎゃり)と言うのが、其でおざりまする。早くお縫いあそばされ。(本文より)

 

それは昼の夢であった。姫は覚めるとすぐに縫い始めた。2日としないうちに、大きな一面の綴りの上帛が仕上がった。若人たちは「何ヶ月もかけて、ただの壁代をお織りなされた。なんとも惜しい」とがっかりする。

 

郎女は、これではあまり寒々としている、と悲しみながら考えていた。

 

二十)曼荼羅

 

世の人の心は賢しくなり、語り部はもう必要とされなくなっていた。当麻の姥も、同様だった。郎女というまたとない聞き手に出会ってから、姥はどこにいてもぶつぶつと一人語りをするようになっていた。当麻に縁ある方が世に上っためでたいこの時、自分が語り部として呼び出されるのを期待もしたが、それも虚しく終わった。

 

秋が深まり、衰えが目立ってきた姥は、知る限りの物語を喋りつづけて死のう、と腹を決めた。そして、郎女の耳に近いところところを求めて、さまよい歩いていた。

 

ある夜、郎女は奈良の家に彩色(えのぐ)があったのを思いつき、すぐ取ってくるようにと長老に命じた。長老は、渋々夜道を急いだ。

 

翌朝、絵の具が届けられると、姫は五十条(約10人分の袈裟の広さ)もの上帛に、じっと目を据え、やがて、楽しげに筆をとると、下がきなしでいきなり絵具を塗り始めた。みるみるうちに、美しい楼閣伽藍が表され、紺青の雲、紫雲、金泥の靄が、命を絞るように描き込まれていく。やがて金色の雲が凝集して、この世の人とも思えない尊い姿が顕れた。

 

刀自・若人たちは、時の経つのも忘れ、みじろぎもせず、姫の前に展開する壮麗な七色の光の霞を、ただ呆けたように見ているばかりだった。

 

郎女が、筆をおいて、にこやかな笑(えま)いを、円く跪坐(ついい)る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消える際に、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、ある訣はなかった。

 

姫の俤びとに貸す為の衣に描いた絵様は、そのまま曼陀羅の相を具えて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を描いたに過ぎなかった。併し、残された刀自・若人たちの、うち瞻る画面には、見る見る、数千地湧の菩薩の姿が、浮き出て来た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢のたぐいかも知れぬ。(本文より)

 

おわり

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最後に、以下の描写と、『百年の孤独』のレメディオスのシーンとを対比してみます。

 

郎女が、筆をおいて、にこやかな笑(えま)いを、円く跪坐(ついい)る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消える際に、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、ある訣はなかった。

 

私が『百年の孤独』に初めて出会ったのは、柳田邦夫『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』文春文庫 なので、こちらから引用します。これは、私の父が甲状腺癌の闘病していた20年ほど前に読みました。柳田さんは、本棚のガルシア・マルケス著『百年の孤独』を引き出し、亡くなった息子さんが、しおり紐のはさんでいた箇所を開き、

 

柳田邦夫『犠牲 わが息子・脳死の11日』P.11より

 

《ああ、やはりレメディオスの話のところだ》ーそれは彼が好きだといっていた場面が書かれてある頁だった。手を出した男どもに、次々に非業の死をもたらしたイノセントな白痴の小町娘レメディオスが、突然姿を消してしまう場面だ。

 

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三月のある日の午後のことだった。紐に吊したシーツを庭でたたむために、フェルナンダが家じゅうの女に手助けを求めた。仕事にかかるかかからないかに、アマランダは、小町娘のレメディオスの顔が透きとおって見えるほど異様に青白いことに気づいた。

 

「どこか、具合でも悪いの?」と尋ねた。

 

すると、シーツの向うはじを持っていた小町娘のレメディオスは、憐れむような微笑を浮べて答えた。

 

「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めてだわ」

 

彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは光を孕んだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにそれを広げるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しくふるえるのを感じたアマランタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみついたその瞬間だった。小町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮きあがった。ほとんど盲に近かったが、ただ一人ウルスラだけが落着いて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。目まぐるしくはばたくシーツに包まれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女はシーツに抱かれて舞い上がり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。(鼓直訳、新潮社版 82頁より)

 

 

メディオスは高みへと昇天しますが、

郎女は滋賀津彦(天若日子)の待つ昏い墓所へ降りていくのか、沈む太陽へ向かうのか、、そこは定かでありません。

 

*ブログ記事 折口信夫死者の書』(1)〜(11)は、青空文庫の頁を参考にしています。青字は、本文から引用。

 

 

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追記)

三)で登場した語り部の老婆は、十二)で乳母につまみ出されて一旦退場しますが、最終章二十)で再び登場します。そこで十八)十九)で郎女の夢に現れた尼僧は、老婆だったということが示唆される。はじめから終わりまで、物語の真相部分に関わっていたのはこの老婆で、語り部としての役割を全うしようとしています。

 

古いものが失われてゆく悲しみ、がこの物語のテーマの1つにあり、語り部もそうですが、石垣の家づくり、に関連して、家持もその悲しみを共有する者として描かれています。もののあはれを解する人々は、やっぱり隅に追いやられて、現実的な出世や栄達とは縁がないのだなぁと改めて。(鴨長明も然り、ダンテも然り)