吉野源三郎『君たちはどう生きるか』と宮崎駿『君たちはどう生きるか』を繋ぐもの

吉野源三郎君たちはどう生きるかは、引越しをした2015年、息子が中学2年生だった時に読んだ。9年前になる。

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このところ宮崎駿君たちはどう生きるかの、折口信夫死者の書』や『古事記』との関連を考えてみたりもしたので、ふと本棚から岩波文庫君たちはどう生きるか』を出してみた。映画を観た直後には、「原作と違う。別物だと考えなくては」と思ったのだけれど、そうなのかな?という気がしてきた。

両者の類似と相違は、すぐにあげられる。

主人公の年齢性別は同じ。名前は潤一(あだ名:コペル君)、真人、と違う。コペル君はお父さんが死んでいるが、真人君はお母さんが死んでいる。少年の世界は、学校と家とその周辺だから、それは同じ。コペル君に広い視野を与えてくれるのは、おじさん。真人君にとってそれは、死んだお母さんが贈ってくれた『君たちはどう生きるか』などの本。書物と一緒に塔にこもって消えた謎の老人(祖父の弟?)もかもしれない。コペル君には友達がいるが、真人君は疎開先の田舎の学校に移ったばかりで友達がいない。

そして2人とも学校でのトラブルをきっかけにして、学校へ行けなくなる。(真人君の場合は継母の登場という家族関係の変化も絡んでくる)内面に強い葛藤を抱えた一種の心の病の状態への逃避と、そこからの「向き直り(転換)」が扱われている。

しかしこんな並列的ではない、2作品を繋ぐ別の何かがありそうだった。結論を先に言うと、コペル君の物語の読者が、真人君だということが重要だった。ヒントは岩波文庫をめくった最後に見つかった。丸山真男による

"「君たちはどう生きるか」をめぐる回想ー吉野さんの霊にささげる(1981,6,25)"。

これは吉野源三郎が亡くなった年(1981)に書かれた追悼文だ。真男、真人、なんとなく似ている気がする。この解説は「ともかく読んでみて !」と言いたい。そのくらい胸に響く。

丸山真男は、昭和二十年(1945年)から吉野が亡くなる前年まで、手紙のやりとりをした。直接会って話もする間柄だったが、それよりずっと前の昭和十二年(盧溝橋事件が起こった年)、新潮社から出版された『日本少国民文庫』の一冊『君たちはどう生きるか』を読んだ時の衝撃を、丸山はこのように記している。(読者として想定されるのがティーンエイジャーであることに触れた後で)

私がこの作品に震撼される思いをしたのは、少国民どころか、この本でいえば、コペル君のためにノートを書く「おじさん」に当たる年ごろです。私はこの本が出たのと同じ昭和十二年に大学を卒業して法学部の助手となり、研究者としての一歩をふみ出しました。しかも自分ではいっぱしのオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したからではなくて、むしろ、「おじさん」によって、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペルくんの立場に自分を置くことを通じてでした。

(映画でも、『君たちはどう生きるか』の本を真人君が開くと、”大きくなった真人君へ 昭和十二年秋 母より”の文字がある。)

全文を写したいが涙を飲んで「書物」と「知識」についての箇所を。

コペル君がおじさんとの対話を通して、粉ミルクの観察から「人間分子の関係、網目の法則」を発見するくだりがある。これが実はマルクスの『資本論』の入門となっていること、それは一般の入門書にあるような理論の天下り的な説明ではなく、身近な現象の観察から理論へと向かう逆のアプローチの仕方になっていることに触れて、

一個の商品のなかに、全生産関係がいわば「封じ込められ」ている、という命題からはじまる資本論の著名な書き出しも、実質的には同じことを言おうとしております。けれどもとっくにおなじみの「知識」になっているつもりでいた、この書き出しを、こういう仕方でかみくだいて叙べられると、私は、自分のこれまでの理解がいかに「書物的(ブッキッシュ)」であり、したがって、もののじかの観察を通さないコトバのうえの知識にすぎなかったかを、いまさらのように思い知らされました。

映画に出てくる塔にこもった老人は、目の前の事物から切り離されていることを連想させる。

「書物」にある「知識」は、今を生きている自分が、じかに事物を観察し、自らの体験(痛み)を通して切実に問いかける中で、見つけ直した時にはじめてその真価を発揮する。コペル君というあだ名は、地動説を提唱したコペルニクスからおじさんがつけたものだ。

地動説は、たとえそれが歴史的にはどんなに劃期的な発見であるにしても、ここではけっして、一回限りの、もう勝負がきまったというか、けりのついた過去の出来事として語られてはいません。それは、自分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の位置づけという考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、何度もくりかえされる、またくりかえされなければならない切実な「ものの見方」として提起されているのです。(中略)

地動説への転換は、もうすんでしまって当たり前になった事実ではなくて、私達ひとりひとりが、不断にこれから努力して行かなければならない困難な課題なのです。そうでなかったら、どうして自分や、自分が同一化している集団や「くに」を中心に世の中がまわっているような認識から、文明国民でさえ今日も容易に脱却できないでいるのでしょうか。つまり、世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「主体」の側のあり方の問題であり、主体の責任とわかちがたく結びあわされているのだ、ということーーーその意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。認識の「客観性」の意味づけが、さらに文学や芸術と「科学的認識」とのちがいは自我がかかわっているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだという、今日にあっても新鮮な指摘が、これほど説得的に行われている例を私はほかに知りません。

こうした背景にある思想や哲学を共有した上で、もしも今私が『君たちはどう生きるか』を作品にするとしたら。それは必然的に原作そのままの再現ではなく、新たに自らを主体として、同じ課題へ向かった悪戦苦闘ぶりを示すことになる。それが、宮崎駿君たちはどう生きるか』だったのではないか。アニメーションという手法を使って、どのように人間と社会を見つめて格闘してきたのか。過去作品のモチーフが映画の随所にちりばめられているのも、きっとそのためだと気がついた。

最後に亡き吉野さんの霊に一言申します。この作品にたいして、またこの作品に凝集されているようなあなたの思想にたいして「甘ったるいヒューマニズム」とか「かびのはえた理想主義」とか、利いた風の口を利く輩には、存分に利かせておこうじゃありませんか。『君たちはどう生きるか』は、どんな環境でも、いつの時代にあっても、かわることのない私達にたいする問いかけであり、この問いにたいして「何となく...」というのはすこしも答えになっていません。すくなくとも私は、たかだかここ十何年の、それも世界のほんの一角の風潮よりは、世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める方が、ヨリ確実な認識と行動への途だということを、「おじさん」とともに固く信じております。そうです、私達が「不覚」をとらないためにも...。

この最後を読むと、大学時代、その頃アニメージュに連載されていた漫画『風の谷のナウシカ』を待ち望んでいた自分を思い出す。そんな私に母が「いいかげん卒業したら」と投げかけた言葉も同時に思い出されるのだが。その私の経験にあるように「甘ったるいヒューマニズム」「かびのはえた理想主義」という批判は、宮崎駿にも、宮崎作品を好む人にも向けられがちなものだったと思う。その意味でこの最後の文は、私に溜飲を下げさせるものがあった。

引照基準は、より遠くに置き、それを目の前の今と相互作用させたいと、私も思う。

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追記

"世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める"

最近読んだこの2つの漫画には、これがあると思った。

岩明均ヒストリエ

舞台は、アリストテレスアレクサンドロス大王が生きた、古代ギリシア時代(紀元前300年頃)。アレクサンドロス大王とその父フィリッポス2世に仕えた文官、エウメネスの数奇な人生の物語(架空)。

afternoon.kodansha.co.jp

魚豊『チ。』

コペルニクスが地動説を提唱したのは1543年だが、舞台はその前夜、ヨーロッパ中世後期(1400頃?-1491年)を想定している。苛烈な弾圧にあいながらも地動説のタスキを繋ぐ人々の物語(架空)。

bigcomicbros.net

 

追記2

吉野源三郎からのタスキは、様々な流れに繋がっていると思う。この短編アニメーション『THE SKETCHTRAVEL』に表現されたタスキ(スケッチブック)も印象深い。堤大介の作品。最後に登場するのは、宮崎駿のよう。

www.youtube.com

『THE SKETCHTRAVEL』は2006年9月から2011年1月にかけて、堤大介の呼びかけで世界75カ国のアーティストが1冊のスケッチブックに無償で絵を描いてリレーした取り組み。スケッチブックは最終的にオークションにかけられ、その落札額は、第3世界諸国に図書館を建設している非営利組織へ届けられた。