いづっさん

 

銀杏落葉あつむれば陽もあつまりぬ

 

井筒安男

 

 

落ち葉の がさっと乾いた感じと

あたたかい黄色に包まれるような感じがする句だ。

 

両親がいづっさん、いづっさん、と呼んでいたので、音で名前を覚えていた。

高くそびえる山を思わせる名前だと子供心に思い込んでいたが

正確には「井筒さん」。

上の句はいづっさんが大学時代に詠んだ句だそうだ。

最近、短歌や俳句が面白いと思い始めて、

この名が急に気になり出した。

句集も出しているが検索してもどこにも出てこない。

 

安男は俳号。

 

昭和10年(1935)生まれ

大学卒業後 大阪の工業高校で国語の教鞭をとる

58歳没(1993)

 

昭和9年生まれの父と1つ違い。

私は大学に上がった春、一度いづっさんにお会いしたことがある。

母と2人でお宅へ行くと奥さんが迎えてくれ、今寿司を買いに行っているとのことだった。しばらくすると一杯どこかでひっかけたのか、赤い顔のいづっさんが戻ってこられた。晩年はお酒が手放せなかったようだ。

 

それよりもっと昔、父といづっさんが短連歌を作っていたのを見せてもらったことがある。短連歌は上の句、下の句、2人で詠んで、1首を完成させる遊びだ。母に聞くと、写真に撮って送ってくれた。

 

7月16日 吟とある。日曜だとすると、昭和42年の夏か。

2人が原稿用紙をのりで繋ぎ合わせて、連句を始めたのを、母は飽きず見学していたという。(正)とあるのは父、(安)とあるのはいづっさんだ。

 

夕立の 止まりし後の 一番機 (正)

見送る 黒い点となるまで   (安)

 

散解も 惜しまれるまま ホームにて (正)

籠のホタルを 覗き立ち居り   (安)

 

帰るべき 故郷もはや胸の内 (正)

「追伸」がつい 長くなりたり (安)

 

母親に 送金の句は 何もなく (正)

切手貼らずに 出した封筒  (安)

 

音沙汰も たがいになくて 生きてあり (正)

結婚以後は みなこんなもの (安)

 

赤い青い 街の灯(ともし)に 背を向ける (安)

幻燈のごと 古びたりけり (正

 

母を葬(ほうむ)って 帰り落花の はげしきこと(安)

透かされてあり 月の面影 (正)

 

友みんな 出世栄達 矢のごとし (安)

去年のうちは ひとつ残りて (正)

 

父訪はば 今銭湯に行って留守(安)

銅貨を積みて 崩したりする(正)

 

「話し中」なので一面 ほっとして (安)

確かめてあり 今来る道 (正)

 

賛辞のべ ほほえみ 拍手 していしが (安)

曇る硝子の 外の風影 (正)

 

ガス暖炉 ときめきに似て 昼を燃ゆ(安)

陽の移りゆく 速さなど云う(正)

 

見舞いびと 見舞われし人 目を見合い (安)

此処には固い 椅子がひとつで (正)

 

車・雑踏 かつて驚き 見たりけり (安)

盃にたまりし 酒の苦さよ (正)

 

妻子不在の 鍋釜類が 遺品めく(安)

こぼれたお茶を しばし拭かずと(正)

 

 

秘めごとは 秘め 世間話に 加わって(安)

洋燈(ランタン)の灯を 賞めたりもする(正)

 

「お替わり」と 言わず「ごちそうさま」と言い(安)

友の寡食の 原因(もと)をひやかす(正)

 

振り向かず 残暑の汗を拭きながら (安)

露路に帰れる 人羨まし (正)

夕立の 止まりし後の 一番機 (正) 見送る 黒い点となるまで   (安) 散解も 惜しまれるまま ホームにて (正) 籠のホタルを 覗き立ち居り   (安) 帰るべき 故郷もはや胸の内 (正) 「追伸」がつい 長くなりたり (安)
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井筒 安男 昭和10年(1935)生まれ 大学卒業後 大阪の工業高校で国語の教鞭をとる 58歳没(1993)
 
 
 
 
 
 
 
 

 

『時の家』 鳥山まこと

 

「良いものを良いように」

 

本を読む時、これは「良さ」に導かれて書かれている

と感じられるものが好きだ。

「時の家」は紛れもなくそうした本の1つだった。

 

◾️登場人物

薮、緑、脩、圭

この家にかつて住んだ一文字の人たち。

家の雰囲気としっくりくる、趣ある名だと思う。

 

青年、少年

この家の住人と縁を結び、

しばしば家を訪れた人たちには名がない。

 

廃屋となり取り壊しが決まった家に忍び込んだ青年が、

家の中を丹念にスケッチしていく。

壁や柱の1つ1つの傷に紐づけられた家の記憶が

展開されていく。

 

◾️問い

いくつかの「問い」が心に刺さった。

 

「そもそも死んでしまったことと長く会えないことって、

どう違うんやろ」p.72

 

緑のセリフだ。

私自身、20代の別れでそう自分に問いかけたことがあった。

(二度と会わないことと、死別はどう違うのか。)

同じことを思った人がいるのか、と驚いた。

小説を読む醍醐味の1つは、自分と同じように感じる人が

見つかることだ。

 

「別れないために、できることって何なのかな」p.107

 

脩さんが圭さんに言う。

人との関係は、解体、別れ、忘却へいつも傾斜している。

ハン・ガンが「別れを告げない」を書いたように

別れない、は意志しなければならないのだ。

本を読みながら涙をこぼしたのは、しばらくぶりだった。

 

「空間内のねじれの位置にある二直線lとmに、

直交する直線がただ1つだけ存在することを示しなさい」

p.111

 

これは教室で緑が少年に手渡した問題。

建築士である鳥山さんらしいと思う。

 

直線それぞれが含まれる無数の平面の中で、

互いに平行なものが1対、決まる。

その2つの平行平面に対し、垂直な方向から俯瞰すると、

直線lmにたった1つ、交点が存在するのが見える。

 

lとmはそれぞれの平面(時間)に閉じ込められ、決して交わることはない。

しかしその1点(家)の垂線により結びつき、貫かれる。

 

2つの震災、コロナ禍、そして今と繋がる。

 

その垂線は、読者である私の中も貫き

私の中を過ぎていった時間もまたその視点から、

振り返ってみることができそうな気がした。

 

矢野久美子著『ハンナ・アーレント』第4章 1950年代の日々

第4章 1950年代の日々

l ヨーロッパ再訪

ll アメリカでの友人たち

lll 『人間の条件』

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l ヨーロッパ再訪

1950年代に吹き荒れたアメリカのマッカーシズム(反共産主義:アメリカ版ファシズム)が、亡命知識人の帰郷の原因となった。

1949年 アーレントヨーロッパを再訪する。

12月 恩師ヤスバースと再会。

1950年 2月 ハイデガーと再会。

1951年 アーレント、アメリカ国籍を取得する。(市民としてアメリカ合衆国に生きることを選択)

 

「伝統の崩壊への徹底した自覚」

新しい支配形式である全体主義の本質=「イデオロギー」と「テロル」

 

ll アメリカでの友人たち

小説家で評論家のメアリー・マッカーシー(1912-1989)と公私にわたり支えあう友人となる。

1953年 プリンストン大学で「カール・メルクスと西洋政治思想の伝統」講義

1954年 ノートルダム大学で「哲学と政治」講義

1959年 カリフォルニア大学バークレー校客員教授「政治倫理史」講義

↓

著作『人間の条件』『革命について』『過去と未来の間』へつながる。

 

沖仲仕の哲学者エリック・ホッファー(1902-83) に出会い親交を結ぶ。

 

lll 『人間の条件』

近代科学は人間の思考にどのような影響をおよぼし、それが世界の「砂漠化」とどのようにかかわっているのか

科学技術ー世界全体を破壊しうる能力(行政的大量虐殺 ガス室、原子爆弾)

科学技術と人間の営みとの関係、地上に生きる人間の条件の理解

これから私がやろうとしているのは、私たちの最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。これは明らかに思考が引き受ける仕事である。ところが思考欠如.......こそ、私たちの時代の明白な特徴の一つのように思われる。そこで私が企てているのは......私たちが行っていることを考えること以上のものではない。『人間の条件』p.143

 

公的なもの=複数の人びとによって共有され、見られ聞かれるリアリティ

 

「物の周りに集まった人びとが、自分たちは同一のものを全く多様に見ているということを知っている場合にのみ」世界のリアリティは現れるからである。p.149

矢野久美子著『ハンナ・アーレント』第3章ニューヨークのユダヤ人難民

第3章 ニューヨークのユダヤ人難民

l 難民として

ll  人類にたいする犯罪

lll 『全体主義の起原』

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lll 『全体主義の起原』

 

1949年秋 大著『全体主義の起原』原稿完成

第一部「反ユダヤ主義」

第二部「帝国主義」

第三部「全体主義」↓

ナチズムとボルシェヴィズムという絶滅収容所や粛清体制を中核とする先例のない統治形態を考察

p.105〜107は、すべて書き写したい。。と思うほど熱を帯びている。

精神科学における方法。因果性はすべて忘れること。その代わりに、出来事の諸要素を分析すること。重要なのは、諸要素が急に結晶した出来事である。私の著書の表題は根本的に誤っている。『全体主義の諸要素』とすべきだった。

『思索日記1 1950-1953』p.105

 

なぜ因果性を忘れなければならないのだろうか。アーレントにとって最も重要だったのは、人間の無用性をつきつけたガス室やそれを実現させた全体的支配という出来事の「法外さ」と「先例のなさ」を直視すること、そして「政治的思考の概念とカテゴリーを破裂させた」その前代未聞の事態と向き合うことだった。アーレントにとって理解とは、類例や一般原則によって説明することでも、それらが別の形では起こり得なかったかのようにその重荷に屈することでもなかった。彼女にとって理解とは、現実にたいして前もって考えを思いめぐらせておくのではなく、「注意深く直面し、抵抗すること」であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく、既知のものと起こったことの新奇な点とを区別し、考え抜くことであった。p.105

 

アーレントは、因果関係の説明といった伝統的方法によっては、先例のない出来事を語ることはできない、と断言する。しかも全体主義という新奇な悪しき出来事は「決して起こってはならなかった」ことだった。それが運命と言ったものの流れのなかで起こるべくして起こったことではなく、人間の行為の結果としての出来事だったということを、アーレントは強調する。人間がどうなるかは人間にかかっている。そのためには新しい語り方が必要だと彼女は考えた。「保存したいのではなく、逆に破壊するべきであると感じている事柄について、つまり全体主義について、いかに歴史的に書くか」という問題だった、とアーレントはいう。p.106

 

私がおこなったことは、全体主義のおもな要素を発見し、それらの要素を、私が適当であり、必要であると思う限りまでさかのぼりながら、歴史的な術語において分析することだった。つまり、私は全体主義の歴史を書いたのではなく、歴史の術語における分析を書いたのである。つまり反ユダヤ主義や帝国主義の歴史を書いたのではなく、ユダヤ人憎悪の要素や領土拡張の要素を、それらがまだはっきりと目に見え、全体主義の現象そのものにおいて決定的な役割を演じているかぎりで、分析したのである。"A Reply"   

私たちはこの大著を読むとき、その題名からして反ユダヤ主義や帝国主義や全体主義の歴史が書かれていると思ってしまう。しかし、アーレントは強制収容所というかたちで結晶化した現象の諸要素を、それらが具体的に現れた歴史的文脈のなかで分析し、語った。「反ユダヤ主義」や「帝国主義」の部で語られる諸要素は、けっして必然的に全体主義へと直結するわけではない。アーレントの叙述を注意深く読むと、そこには行為者かつ受苦者としての人間の選択のあり方、動き方が描かれている。別の可能性もありえた、それなのにどうしてそのような事態にいたってしまったのか、ということを考えさせる物語なのである。それは、要素を明らかにすることによって、それらの要素が再びなんらかの形で全体主義へと結晶化しようとする時点で、人びとに思考と抵抗を促すような、理解の試みでもあった。p.105

政治的道具としての反ユダヤ主義の危険性は、ユダヤ人が抽象化され、ユダヤ人一般として見なされることにある。具体的にユダヤ人と接触したことのない群衆が、個人的経験ぬきでイデオロギーとしての反ユダヤ主義に染まる。そこに次に述べるような人種主義的要素が組み合わさり、抽象化された存在に対する無責任で過激な暴力、「イデオロギー的狂信」の土壌ができあがったのである。p.109

強制収容所という実験室のなかで人間の無用化の実験をしようとした全体的支配の試みにきわめて精確に対応するのは、人口過密な世界のなか、そしてこの世界そのものの無意味性のなかで現代の大衆が味わう自己の無用性である。『全体主義の起原3 全体主義』

 

政治とは、

市民たちが法律に守られながら公の場で語り行為すること

人々が複数で共存すること→人間の複数性

人間の複数性とは、

共同体に属して権利を持つこと、交換可能な塊に還元されないことに連動し、

「複数である人間によって複数である人間について語られた物語の中で真実性をもって記憶される権利、歴史から消されない権利(ヤング=ブルーエル『なぜアーレントが重要なのか』)」に結びつく。

 

矢野久美子著『ハンナ・アーレント』第3章ニューヨークのユダヤ人難民

第3章 ニューヨークのユダヤ人難民

l 難民として

ll  人類にたいする犯罪

lll 『全体主義の起原』

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l 難民として

1933年〜44年の間に23000〜25000人の知識人たちがヨーロッパからアメリカに移ったと言われる。

ヨーロッパにとってそれは、回復に数十年を要するほどの知的大損失であった。p.80

1941年 リスボンで数ヶ月待った後、5月22日ハンナは夫ブリュッヒャーとともに、ニューヨークに着く。1ヶ月後母マルタも合流。

ハンナはアメリカで生きるためにアメリカ人家庭で家事手伝いをしながら英語を習得する。

アメリカの知識人社会では英語の訛りなどは問題ともならず、ヨーロッパからの有能な人びとを受け入れる開放性があった。p.81

1941年9月

シオニストのブリュッヒャー(パレスティナに移住。ブライ大学やユダヤ建国基金の執行部)がニューヨークで行った講演会に足を運んだハンナは、ドイツ語の週刊誌『アウフバウ』編集長と知り合う。

『アウフバウ』10月24日号で、ジュール・ロマンへの公開書簡を発表。これがきっかけで同誌に寄稿するようになる。

 

ハンナの言葉

"人は攻撃されているものとしてのみ自分を守ることができる"p.85

厳しい批判や皮肉もふくむ彼女の語り口は、一貫して人間の尊厳を守ることへの緊張感に満ちている。それは、危機的な時代状況を把握しようとするアーレントの姿勢そのものであり、政治や権威ある組織への批判であり、亡命ユダヤ人たちへの切実なよ呼びかけであった。p.85

 

ll  人類にたいする犯罪

1941年〜1942年 占領下ポーランドの6ヶ所に絶滅収容所がつくられる。

アウシュビッツの噂を聞いたハンナは、最初それを信じなかったという。

それはまさに、あたかも奈落の底が開いたような経験でした。......これはけっして起こってはならないことだったのです。犠牲者の数のことを言っているのではありません。死体の製造やその他のことを申し上げているのです。......このようなことはけっして起こってはならなかったのです。そこで起こったことは、私たちの誰であっても、もはや折り合いをつけることができないものだったのです。『何が残った?母語が残った』

 

人間による人間の無用化 人間の尊厳の崩壊

「ヨーロッパの中央部に建てられた死の工場」は、すでに擦り切れかけていた世界と人間についての伝統的な観念の糸を完全に断ち切るものだった。p.91

 

パーリア(賎民)としてのユダヤ人の論考

パーリア:法の外に置かれた人=無国籍者となった難民の激増

世界は人間自体が余計者とされる破局(絶滅収容所)を目の当たりにした。

 

この頃、ユダヤの少数のパーリアの思考から学ぶことの意義をハンナは強調した。

それは、成り上がり者になろうとせずに自分たちのよそもの性を自覚的に受け止めて表現した少数の人たちだ。

彼らは、非ユダヤ人の世界からもユダヤ人の世界からも距離をとり真実を述べることによって、排除や敵対を経験した。p.93

 

<ハンナが挙げたバーリアの4類型>

 

・ハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)

・ベルバール・ラザール(1865-1903)

・チャーリー・チャップリン(1889-1977)

・フランツ・カフカ(1883-1924)

 

(カフカ作品についての以下の記述は、確かに納得できる)

彼の作品に登場するパーリアは、人物としてはユダヤ的な特徴をもっていないが、社会のなかでのよそものとしてユダヤ的状況のなかに置かれている。カフカのパーリアにとっては「思考することこそが新しい武器」となり、思考の能力が自己保存の道具となる。また、彼は典型的な善意の人間として、共同体の一員になって普通の人間生活を送る権利しか要求しないのだが、それを権利として要求するために、支配体制を「運命」として受け入れている周囲の人びとの理解をえられない。p.95

ハンナはカフカの『日記』の出版にも力を注ぐ。

 

1945年 ドイツ無条件降伏。ヨーロッパでは世界大戦が終わる。

敗戦が何を意味するのかをドイツ人にわからせるのがほとんど不可能な状況に

「ひとたびすべてが<政治化>されてしまうと、もはやだれ一人として政治に関心を持たなくなる。」  p.96

すべての人びとが全体的支配に巻き込まれ、総力戦を戦うとき、選択や決断や責任にたいする自覚が失われる。p.96

(中井久夫が「いじめの政治学」に書いた構造との類似が感じられた。)

 

1945年1月 アーレントの論稿「組織的な罪と普遍的な責任」↓

ナチの人種エリートは敗戦の色が濃くなるにつれてそれまでの方針を転換して自分たちと全どいつ国民を一体化し、人びとの生活が営まれる中立の地帯を破壊し、行政的大量殺戮という犯罪に国民全体を組織的に巻き込んでいった、と指摘 p.96

「誰もが罪に関与しているとすれば、結局のところ誰も裁かれえない」p.96

アーレントは、毒ガスによる殺人や生き埋めを日々見ていた収容所の主計官が、自身の罪を問われて「私が何をしたのでしょう」と泣き出したという報道を引用していた。p.97

戦争が終わり、ヨーロッパの友人と連絡がとれ始める。ヤスバースから手紙が来て交流が再開する。

ドイツでヤスバースは政治的・知的に独立した発言をしたため「国賊」と見なされ半ば監禁状態で妻と生活していた。

ヤスバースは雑誌『ヴァンドルング』を創刊。アーレントに寄稿を依頼するが、

アーレントは

「ユダヤ人」として歓迎されるのでなければ、たやすく当然のように帰ることはできないードイツの雑誌への参加はある種の帰郷のかたちなのだーと。p.102

と返答。ヤスバースはすぐさまこの事情の前置きをつけた形で、アーレントの「組織的な罪と普遍的な責任」のドイツ語原稿を『ヴァントルング』に掲載する手配をした。

 

矢野久美子著『ハンナ・アーレント』第2章 亡命の時代

第2章 亡命の時代  1933-41年

I  パリ

ll 収容所体験とベンヤミンとの別れ

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I  パリ

1933年7月 路上で逮捕されるが、運よく出獄できたハンナは母とチェコ経由でジュネーヴの友人のもとへ身を寄せる。友人のつてで国際労働機関事務局で働く。

1933年 秋 母をケーニヒスベルグへ戻し、自らはパリへ行き夫と合流する。

1938年11月「水晶の夜」ドイツ全土でユダヤ人襲撃が展開される

1939年 母マルタとパリで合流

 

1933年に出国した人々

文化的、政治的にナチス政権下で危険に晒された知識人や活動家

亡命先→フランス、ベルギー、オランダ、スイス、チェコスロバキア

 

パリ:

亡命ユダヤ人は「われわれのパンを奪う」不審な外国人として、メディアや大衆による排外主義的な言動にもさらされた。p.49

 

ハンナはパリの知識人たちと交流し、ヴァルター・ベンヤミンの親しい友人となる。

 

彼女はもはやアカデミズムの世界で生きるつもりはなかった。ドイツで大学教授たちのナチへの同調を目の当たりにした彼女は、二度とこうした「グロテスクな」世界とかかわるまいと考えていたのである。 p.51

 

1934年 「農業と手工業」で職に就く。

農業と手工業:ユダヤ人の若者にパレスティナへの移住に備えた教育をほどこすことを目的として設立。

 

1935-1938年 「青年アリヤー」のパリ事務所事務局長として働く。

青年アリヤー:青少年のパレスティナへの移住を援助。

こうした試みは、子供たちだけ移住させるという点で最初は親たちや他のユダヤ組織からは懐疑的に見られていたが、結果として数千人の若者たちの命を救った。p.52

 

1938年「パレスティナのためのユダヤ機関」でオーストリアとチェコからの避難民を救援する仕事に就く。

(ドイツは同3月にオーストリア併合、9月にチェコスロバキアを解体し、大量の避難民が生じていた。)

 

ハンナがのぞいたパリのユダヤ人上流階級の態度

慈善事業として資金援助はしても政治的に行動することを忌避し、反ユダヤ主義から避難してきたユダヤ人たちを同胞としては見なさなかった。彼らは、早い時期の知識人亡命者たちのことを「博士様、たかり屋様」とよび、嫌悪感を隠さなかったが、激増するユダヤ人難民にたいしては、自分たちが同化してきた社会の反ユダヤ主義を高めるとして、厄介払いする雰囲気もあったのである。 p.54

 

パリで親交を深めた人たち

ヴァルター・ベンヤミン、神経科医フリッツ・フレンケル、トロツキストで法律家のエーリッヒ・コーン=バンディ、画家カール・ハイデンライヒ、ハインリッヒ・ブルッヒャー(後にハンナの2番目の夫になる)

 

ハンナ:反ユダヤ主義をふくむ右翼の分析

ブルッヒャー:スターリンによる支配に変質していく左翼の分析

 

彼は共産党の最悪の部分とナチのおぞましさの共通点を指摘した。p.61

のちにアーレントはこれらの議論を引き継ぎ、ナチズムとスターリニズムにおけるイデオロギーの役割や、両者の類似性と取り組むことになる。p.62

 

ll 収容所体験とベンヤミンとの別れ

1939年 9月 ドイツ ポーランドに侵攻。イギリスとフランスはドイツに宣戦布告。

1940年 1月 ハンナ、ブリュッヒャーと結婚。

5月5日 

フランス政府が17ー55歳のドイツ出身者、男子全てと未婚あるいは子供のいない女子全てに出頭を命じる。

5月23日

女性たち(ハンナ含む)はギュルス収容所に収容される。

6月14日 フランスがドイツに降伏し、ナチがパリに入る。

混乱に乗じてハンナは脱走する。脱走しなかった人はナチにより強制収容所へ送られた。脱走後、ルルドに立ち寄ったハンナはベンヤミンと再会し数週間を過ごす。

7月 夫ブルッヒャーを探しにモートバンへ向かい、再会する。

8月 夫妻はマルセイユでベンヤミンと再会。ビザの期限が合わず、夫婦はベンヤミンと別れアメリカへ向けて出国。ベンヤミンはピレネーを超えスペイン国境を超えることができず、フランスに戻されることがわかると大量のモルヒネを飲み自殺する。

 

 

第1章ll マールブルクとハイデルベルクでの学生生活 lllナチ前夜

ナチ前夜のことを知ることは大事だ。同じことを繰り返さないためにも。

 

第1章 哲学と詩への目覚め 1906-33年

I  子供時代

ll マールブルクとハイデルベルクでの学生生活

lll   ナチ前夜

 

ll マールブルクとハイデルベルクでの学生生活

 

1924年秋 マーブルク大学に入学

    (主専攻:哲学 副専攻:プロテスタント神学、古典語) 

    マルティン・ハイデガーが前年から教壇に立っていた。

    17歳上で妻と2人の息子を持つハイデガーの求愛を受け入れ恋に落ちる。

    それはハイデガーの妻の知るところとなり、ハンナはマーブルクを去る。

 

1926年夏  ハイデルベルグ大学へ転学

     ハイデガーの朋友カール・ヤスバースに師事する。

 

1929年 博士論文「アウグスティヌスにおける愛の概念」を出版(22歳)

アーレントは、「社会のきずなの存在論的根拠を求めて」アウグスティヌスとの対論を試みた。    『アウグスティヌスの愛の概念』千葉眞

 

「人類」の存続を決めるのは、人々の相互依存性の証明それ自体ではなく、それなしには全ての相互的関係は成立し得ないであろう必要不可欠な信念である。

『アウグスティヌスにおける愛の概念』

 

この時期、祖父の論敵で友人でもあったシオニスト指導者のクルト・ブルーメンフェルトと親交を結ぶ。彼からアーレントは、アカデミズムの外部で考え、反ユダヤ主義に対して政治的に思考し立ち向かう姿勢だけでなく、人生を楽しむ味わいも教わった。

 

lll   ナチ前夜

 

1929年 ダンスパーティで出会ったギュンター・シュルテンと結婚

ギュンターは24年マールブルグのハイデガーのゼミに研究生として参加していた。

2人は職を求めてフランクフルトに移るが、叶わず1931年にベルリンに戻る。

 

ハンナは、ドイツ・ロマン主義時代のユダヤ人女性ラーエル・ファルハーゲン(1771-1833)について研究を始める。ヤスバースの尽力により、ドイツ学術助成会からの奨学金を得る。

(ラーエルは、サロンを主催し、300人を超える人たちと交際し、6000通を超える手紙と数冊の日記を残していた。)

 

ナチに対する危機意識は夫婦ともに持っていたが、その応答の仕方は異なり、夫婦関係は次第に冷めていく。

 

1932年 選挙によりナチスが第一党になる。

1933年 ヒトラーが首相に就任。

2/27の国会議事堂の放火事件により、3月(ナチ政府への)全件委任法が成立。

4月 職業官吏再建法により、反体制派やユダヤ人が公務職員から追放される。

ハイデガーはナチ党に入党。

ナチは均制化・強制同質化の政策を進める。

まだ選択の余地があった段階で、とりわけ知識人の友人たちがナチに迎合していったのである。 p.45   

夫ギュンターはパリへ亡命。

放火事件の夜から、人びとが強制収容所に連行されはじめる。

「もはや傍観者でいられない」とハンナは、ブルーメンフェルトに協力。その結果、逮捕されるが運よく出獄でき、翌日には母マルタと非合法にドイツから離れる。