折口信夫『死者の書』(九)

八)で初めて登場する大伴家持は、万葉歌人の中で超がつく有名人。

 

家持によって、物語の時が意識され、舞台に着地点ができている。

 

彼が、「自分も横佩の右大臣のように、どこか僻地へ飛ばされるかもしれない」と、強迫観念に取り憑かれているのは、小説執筆当時の世相にも、また今にも通じそうだ。

 

近い飛鳥から、新渡来高麗馬って、馬上で通う風流士もあるにはあったが、多くはやはり、鷺栖の阪の北、香具山のから西へ、新しく地割りせられた京城坊々に屋敷を構え、家造りをした。(本文より)

 

この部分は、造成された職場近くのニュータウンに住むか、それとも住み慣れた所から通勤するか、当時のサラリーマンも頭を悩ませたのか、と思わせられる。

 

合理主義が世の中を覆い、古き良きものが見捨てられていくのを、家持は寂しい思いで眺めている。このような風流人の一人、時流に乗れなかった人として、郎女の父、横佩の右大臣も描かれる。(家持が、政治的に不遇であったことは歴史でも知られている)

 

時系列がはっきりせず、場面も飛ぶのが、この小説の読みにくい点の1つかもしれない。六)まで来てようやく、郎女が家を出るのは春分の日であるのがわかる。

そこから逆に、ここまでの各章がいつなのかを見てみると、

一)いつかは不明(1年前頃?)

二)、三)、四)春分から1日目の夜

五)春分から2日目の夜明け前

六)1年前の冬頃?〜春分

七)春分から1日目の朝

八)飛鳥時代の背景(物語のその頃)

九)春分から2日目の朝

 

続く九)にも家持は登場し、色好みの一面をのぞかせる。

 

九)色好みの心(大伴家持

 

春分の日から2日後の朝、馬で朱雀大路を下っていた家持は極めて早い時点で、

以下のニュースを従者から聞く。

 

それによると

神隠しにあっていた南家の郎女は、一昨日の夜のうちに当麻村に行っており、万蔵寺からの使いが昨日午後、郎女がいることを横佩家に知らせてきた」というのだ。

 

家持は、南家の郎女への興味を掻き立てられる。

 

「このところ、我が家の長女を、嫡子久須麻呂の嫁に欲しいと、しきりに言ってきている藤原仲麻呂(恵美家)は、もう五十を超えているが、横佩家の姫(かの郎女)に執心していると言う噂だ。その仲麻呂よりも、ひとまわりも若い自分(42、3歳)も、まだ、、」と家持は思う。しかしすぐに、「郎女は神さびた性だから、いずれ神の嫁になるつもりだろう、だから結婚話も断っているのだ」と思い返し、自分の諦めのよさに苦笑する。

 

家持は、京極まで馬を進め、新しい家の普請に行きあう。その家の周囲が石垣ではなく土筑垣で造成されているのを目にして、新しいやり方に馴染まない自分にまた憂鬱な気分になる。従者も同じ気持ちだった。

 

しかしすぐに、春の陽射しに誘われるようにして、過去に詠んだ歌が思い出され、若々しく自由で澄んだ心持ちが身のうちに蘇ってくる。気づくと家持は、三条まで馬を進めおり、そこに昔ながらの石城の家がまだ残っているのを、驚きを持って眺める。それは横佩の家だった。

 

「まだまだ自分も若い色好みの心が失せていないか...」と家持は思う。

 

「家がやけにひっそりしているのは、郎女の行方もわかり、乳母もそちらへ行ったので落ち着いたのでしょう、こういう時は、騒ぎに乗じ悪い魂や霊がくるので、静にしているのが得策です」と従者が言う。家持も「もうよい。戻ろう」と声をかけて道を引き返していく。

 

折口信夫『死者の書』(五〜八)

不思議な過去との因縁(下図)が老婆によって語られ

 

神代  =50年前=物語の現在

天若日子=滋賀津彦=御霊

(?)=耳面刀耳(藤原家一の媛)=藤原南家郎女

 

場面は再び、滋賀津彦の墓所の中へと移る。

 

五)丑刻(午前2時)から卯刻(晨朝:午前6時)

 

岩屋の中。御霊が、自分の名は、滋賀津彦だと思い出す。

 

妻は自分の後を追って殉死し、一人息子の粟津子も、どこかへ連れて行かれ、生きてはいないだろう。

 

(丑刻、外の世界では草木や人が動き出す)

 

御霊は、子代も名代もないことを嘆き、誰の記憶にも自分の名が残らないのは、承知できないと憤る。そして、耳面刀自にこう呼びかける。

 

耳面刀自。おれには、子がない。子がなくなった。おれは、その栄えている世の中には、跡を(のこ)して来なかった。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り伝える子どもを――。(本文より)

 

万蔵法院で晨朝(午前6時)の鐘が鳴る。庵の中の娘は、身じろぎもせずにいる。老婆はうずくまっている。どこからか吹き込んだ風が、灯火をふ、と消す。

 

ただ一刻ばかり前、這入りの戸を揺った物音があった。一度 二度 三度。更に数度。音は次第に激しくなって行った。(とぼそ)がまるで、おしちぎられでもするかと思うほど、音に力のこもって来た時、ちょうど、鶏が鳴いた。其きりぴったり、戸にあたる者もなくなった。(本文より)

 

※この場面はとても怖い。子供の頃にやった「あーぶくたったー にえたったー」の遊びの、ゾクゾクする怖さが、蘇ってきた。歌の終わりは、「おふとんしいて、ねーましょ」と、輪になってみんなしゃがみ、手を頬に添えて寝るまねをする。すると、輪の真ん中でずっとしゃがんでいる鬼役の子が、こう言うのだ。

 

鬼「とん とん とん...」

周り「何の音?」

鬼「風の音」

周り「あーよかった」

鬼「とん とん とん...」

周り「何の音?」

鬼「洗濯機の音(など、適当に答える)」

周り「あーよかった」

 

しかし、何度目かの後、こう鬼が答えると大変である。

 

鬼「おばけの音」

 

キャーと一斉に周りは逃げて、鬼は捕まえに走る。捕まった子が今度は鬼になる。

 

 

六)なぜここに来たか(郎女の去年来の物語)

 

仲春(3月)の、雨あがりの朝。

昨日暮れ方から、郎女は誰にも言わず奈良の家を出て、唯一人で、万蔵法院まで徒歩できた。伽藍をめぐり、塔に登り(結界破り)、気持ちのいい景色を広々と見渡している。彼女は祖先の生まれ育った平野を特別な思いで眺め、そして胸をときめかせて二上山を仰いだ。

 

郎女は何故ここにきたのか。事の起こりは、去年に遡る。

 

郎女の父、横佩大将が、新訳阿弥陀経1巻、称讃浄土仏摂受経を彼女に贈ったのがその発端である。それは太宰府で手に入った、まだ大和国の大寺にもない、珍しい本だった。郎女は早速これを手写し始めた。夜が更けても油火の下で黙々と机に向かい、あっという間に100部写し終えた。郎女は1000部を写す請願を立てた。冬から春、やがて夏になり、500部が過ぎる頃から目立ってやつれてきたが、800部を超える頃には健康も落ち着いた様だった。ところが、900部を超えるあたりから筆が遅々と進まなくなる。

 

ちょうど去年の春分の日のこと。郎女は西に向かって正座し、入り日を見ていた。その時、

 

西空の棚雲の紫に輝く上で、落日はかにき出した。その速さ。雲は炎になった。日は黄金丸(まるかぜ)になって、その音も聞えるか、と思うほど鋭く廻った。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、じっと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲はれた。夕闇の上に、目を疑うほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありありと荘厳な人の俤(おもかげ)が、瞬間れて消えた。(本文より)

 

それから半年後、秋分の日に彼女はもう一度、あの荘厳な俤を見る。

 

その次の春、南家郎女が宮に召されるという、めでたい噂が流れた。まわりの者皆が浮き立つ中で、郎女は一月も前から別のことに胸を高鳴らせていた。

 

春分の日、その日はのどかで温かかった。999部を完成させた彼女は、1000部目の手写しにかかっていた。最後の一文字を書き終えて、ホッと息をついて外を見ると、いつの間にか、空が暗くなり、雨がポツポツ降り出していた。雨足は次第に強くなっていく。

 

姫は、立ってもても居られぬ、焦躁えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。
茫然
として、姫はすわって居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加って来た風の響きも、もう、姫は聞かなかった。(本文より)

 

七)行方不明(南家、万蔵法院、それぞれの騒ぎ)

 

郎女が居なくなったことに、家人が気づいたのは、翌朝だった。家中が騒然となり、総出で洛中、洛外、沼、池、雑木林、山とくまなく探したが、見つからない。

 

ところで郎女は、雨風が止んだ中、半月の月明かりを頼りに、ひたすら二上山の方角を目指して歩き続けた。夜が明け、目の前に万蔵院の朱塗りの門が鮮やかに現れた。中へ入り、塔に上がり、ただ山を見ていた。それを、起きてきた寺奴に見つかり騒ぎになる。

 

「出てきなさい。そこは男でも這入る所ではない」と叱られ、おずおずと出てきた郎女の周りには、後から後から僧が集まってくる。どうしてまた一人で?お家は?と口々に尋ねられて「右京藤原南家…」と郎女が答えると、一同どよめく。

 

その頃、南家では、姫は野遊びに出かけたのではあるまいか、との憶測がされる。そう思うことで、少し安堵の気配が家の中に漂うが、日が傾いてくると、再び皆の気持ちは重くなる。

 

八)時流

 

大伴家持は、石垣の家づくりから、日々の習わしまで、自分が昔風を好む気質のために、時代に遅れてしまっていることに、苛立っている。現に藤原という家柄でありながら、自分と性質の似ている南家の横佩右大臣は、三年前に太宰員外帥に左遷され都を離れ、今は難波で謹慎している。同様のことが、家持には我が身にもまた起こるように思えてならない。

 

世の中が政争にピリピリする中での大仏の開眼は、しばしいざこざを鎮め、人々の心を浮き立たせる効果をもたらした。伽藍に安置された多聞天は大師藤原恵美中卿広目天は義淵僧正の弟子の道鏡法師に似ている、いや前太宰少弐藤原広嗣―の殿に生写しだなどと、世間の人々は勝手に噂していた。こうした噂に人々が飽きてきた頃、その噂の主である大師恵美朝臣の姪、横佩家の郎女が神隠しにあったという事件は、大旋風を巻き起こした。

 

 

折口信夫『死者の書』(一〜四)

一) 御霊の目覚め

 

暗闇の中で死者(大津皇子滋賀津彦):天武天皇の第3皇子)の御霊が目覚め、耳面刀自を想う。御霊は、自分が一体誰でどこにいるかわからない。やがて、伊勢の斎宮である姉(大来皇女:おおくのひめみこ)が(死んだ)自分を呼び活けに来た時のこと、自分は殺され、ここ二上山の上に埋葬されたことを思い出す。

 

"おっかさま。著物がなくなった。すっぱだかで出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに、寝床の上を這いずり廻っているのが、だれにも訣らぬのか。こんなに、手足をばたばたやっているおれの、見える奴が居ぬのか。

そのき声のとおり、彼の人の骸は、まるでだだをこねる赤子のように、足もあががに、身あがきをば、くり返して居る。明りのささなかった墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど透けてきて、物のたたずまいを、幾分ろに、見わけることが出来るようになって来た。(本文より)"

 

この辺の描写は、「暗黒舞踏」をなぜか連想させます。闇に白く浮かび上がる神がかりのような踊り。

 

二)白装束の9人

 

月が静に照らす二上山の当麻路を、白装束の9人が「こう こう こう」と声をあげながら降っている。彼らは、その辺りにさ迷い出ている藤原南家郎女の御魂に、身体へ戻るよう呼びかけている。魂ごいの行を終えた9人は、塚(滋賀津彦の墓地)の傍らで休む。その内の長老が、塚の由緒を語り出す。

 

この塚は、謀反の罪で死んだ滋賀津彦を、(やはり天に弓引き謀反の嫌疑で殺された古事記天若日子の伝説になぞらえて)難波から大和へ向かう当麻路のこの地に埋め、わるい猛び心を持ったものを都へ通さぬよう、守り塞ぐ目的で造られた。五十年前、この老人は塚の作業に携わった。

 

聞いていた別の一人も「一緒に作業をしていた石担ぎに、墓の御霊がとりついた時は畏かったよ」と話す。

 

気のおける場所なので、長老の呼びかけて9人は再び、魂呼ばいの行をする。

「こう こう こう」

すると墓から

「おお...」

と返事が聞こえた。9人は蜘蛛の子を散らすように逃げ去る。

「おおう...」

という声ばかりが谷に響く。

 

藤原南家郎女... 『神の嫁』の主人公、横佩大納言家の姉姫と同じ人物。

 

三)結界を超えて来た娘(藤原南家郎女)

 

万蔵法院の小庵に、娘(藤原南家郎女)が眠ることを忘れたように座っている。横佩家の娘である。寺では、急ぎ横佩家へ使いを送る。女人結界を超える禁忌を犯した娘は、その贖いをする間、ここに留め置かれることになった。

 

娘のそばには、当麻村の語り部である老婆がついており、止めどなく藤原家の系譜を喋り出している。そのうち、老婆の語りは、神がかってくる。

 

四)老婆の語り(滋賀津彦の執心と天若日子

 

老婆は、耳面刀自(藤原処女)を慕う長歌を吟詠する。この歌は、滋賀津彦の墓を造っていた石担ぎに、墓の御霊がとりついて、歌ったものという。

 

五十年昔、天子に弓引いた罪で、池上の草の上でこれから死のうとする滋賀津彦の近くに、彼の命をおしみ一目だけでもと、耳面刀耳がこらえきれずに駆けつけた。その時、彼女の美しい姿が、彼の目にちらりととまった。この最期の一目が、この世に名残りを惜しむ執心となり、この執心が御霊となった。時を経て、藤原家の流れを汲む最も美しいあなた藤原南家郎女)、まだ婿取りをしていないあなたは、その幽界の目には耳面刀自と映るのだ。滋賀津彦の御霊の力に引き寄せられて、あなたはここに来た、と老婆は語る。

 

私をここに導かれた御仏のような相好の、輝くような美しいお方が、昔のその罪人とは思われません、と娘は言う。

 

老婆は、あなたが見たのは神代の時の天若日彦という神だ、代々藤原家の一の媛に祟るこの神の顔は清らかで、滋賀津彦もこの「天若みこ」が姿をとった一人だ、と説明し終えると口をつぐむ。

 

折口信夫『死者の書』(零)

去年は、おおえまさのり編訳『チベット 死者の書

僧が死者の枕元で読み上げ、死者の意識に向かって今起きていることを説明し、よりよい転生へ導くための書

を古本市で買ったり、

 

ダンテの『神曲

ダンテが生きながら死んだ人たち(歴史上の人物から知り合いまで)に地獄・煉獄・天国で出会う話

の読書会に参加したりもしたので、

 

折口信夫死者の書』に出会ったこの機会に

自分なりに分析読書してみよう、と思い立ちました。

 

まだ全部は読みきれていませんが、これ、

一目惚れ(LOVE AT FIRST SIGHT)がテーマ??

 

それもちょっと怖くなるほどの。

 

 

 

死者の書」の原点は「神の嫁」。これは先に読みました。

 

背景知識がないと、なかなか私に読みこなせそうにはないのですが、全部で二十の章から成るこの物語を、まず各章何が書いてあるかまとめながら、調べたことなどども含めて、順に追っていこうと思います。

(勝手読みです。間違いはあるかと思いますので、ご容赦ください)

 

折口信夫『神の嫁』

折口信夫 『神の嫁』を読了。


この物語は、横佩大納言(藤原豊成)の姉姫行方不明事件から、着想を得て書かれたようです。

内容を、ざっくりとまとめてみました。(斜め読み、ご容赦ください)

―失踪事件当日―


横佩大納言の家の女たちが、高円山から東大寺南大門あたりまで、野遊びに出かけた。帰ってみるとずっと一緒だったはずの姉姫の姿がない。大騒ぎして、人々が姉姫を探す。

亥の刻(午後10時前後)、三条大路に杖をついた、不気味な嫗が現れる。
(記述はないが、姉姫は意識のない状態で、この時刻あたりに発見されたと思われる)

ー8日後ー

姉姫の意識が戻る。枕元では、先の嫗が、姫に憑依した精霊を追い払い、外へ出てしまった魂を身体に戻すための呪文を唱え続けている。姫の目は開いたが、口がきけなくなっていた。彼女は、意識を失っていた間、会っていたお方(男性神、姫が嫁いだ相手)を想っている。

姫の口のきけない訳を、嫗が子供を呼んで来させて、その子供に、そこにいる神を降ろして尋ねる。それは春日大社の神(姫の夫)と名乗る。神は、「口のきけないのは、俺のせいではないとは言わないが、理由は本人に聞け」と言い、帰っていった。

―1月後―
都では、遣唐使が戻り、それが引き金となって、疫病が蔓延し始める。バタバタと人が死んでいく。

その頃、横佩大納言が、娘である姫の部屋から届いた手紙を受け取った。そこには、
「私の身体を疫病の神に捧げ、世の中の人を救いたい。私を大路へ棄ててください」
と書いてあった。

ーーーーーーーーーー

学生時代に10年ほど奈良で過ごしたので、懐かしくなり、地図で登場する場所を結んでみた...

 

 

土を喰う日々ー6月の章ー

梅干しは、何と手間暇かけた食べ物なのだろう。

「梅干し」と聞いただけで唾が溜まるのは、私にも味覚の記憶が根付いているから。

水上勉著 エッセイ『土を喰らう日々』も梅雨に入る。

 

手作り梅には、手をつくすだけの自分の歴史が、そこにまぶれついている。p.126

 

相国寺瑞春院の梅庭ー松庵和尚の梅干つくり

和尚はいったものだ、梅は梅雨の雨を浴びたものでないといけない。p.110

<手順>

・収穫したものをよく洗い、ひと晩水につける。

・水きりしてフキンで1つ1つ拭き、着け瓶に塩をつまんで梅と交互に入れる。

 (塩は梅の量の20%程度)

・4、5日して水があがってきたものを、白梅酢という。瓶はそのままにする。

     (およそ3,4週間)

・七月初めに赤紫蘇が大きくなると、葉を摘んでよく洗い、塩でもむ。

・最初のアク汁は捨て、2回目からは梅酢を少しずつとり出してまぜてもむと、

 真っ赤な液体ができる。これが赤梅酢。

・土用の晴れた日、ザルに果だけをとり出し、1つ1つ重ならないように干す。

 (夜も出しておく)

・梅がしわばみ日に焼けると、もとの瓶に梅と葉を交互にいれ、赤い梅酢を加え、

 フタをしっかりする。

 (食べるのは半年後くらいから)

 

*夏の飲料ー赤梅酢に砂糖と氷水をまぜてー

 赤く透明な美しい飲み物は、映画では再会した松庵和尚の長女、良子さんにグラスに入って差し出される。エッセイでも長年消息のわからなくなっている良子さんと水上さんは会われている。 以下はその時のやりとり。

 

*五十三年生きた梅干し

「大正十三年の梅干です。母が父と一しょに漬けたものをもってきました。父は梅干しが好きで、よく庭のをとって漬けていましたが、これは、母が嫁にきた年に漬けたものだそうです。母は、もし勉さんに会う機会があったら、これを裾分けしてあげなさい、といって死にました」

といって涙ぐんだ。ぼくは、声を呑んでそれを頂戴した。さっそく、軽井沢へもち帰り、深夜に、その一粒をとりだして、口に入れた。舌にころげたその梅干は、最初の舌ざわりは塩の吹いた辛いものだったが、やがて、舌の上で、ぼく自身がにじみ出すつばによって、丸くふくらみ、あとは甘露のような甘さとなった。僕は、初めはにがく、辛くて、あとで甘くなるこんな古い梅干にめぐりあったことがうれしく、五十三年も生きていた梅干に、泣いた。p.118

 

***

佐藤初女さんのつくるおむすびは、真ん中に美味しそうな梅干しが入っている。

水上さんのレシピが、かなり塩を効かせる印象なのは、京都という湿度の高い風土のせいかもしれない。初女さんは青森だから、カビたりする心配は、京都よりなさそうだ。その土地の風土に合うように、レシピは変化するものなのだろう。

 

初女さんの手づくりの梅干しの作り方『おむすびの祈り』より

 梅干しづくりは、大変手間のかかるものですが、手を抜かず、一つ一つの作業に心をこめることで、おいしく長持ちする梅干しができます。

 私の場合は、まずはじめに、青梅を一昼夜真水にさらし、アク抜きをします。次に塩水にニ、三日浸け、色を出すために紫蘇の葉を入れます。青梅がしんなりしたところで、塩水からあげて、いよいよ干し始めます。

 干すといっても、ただザルなどにあげて無造作に干すのと、一つ一つ丁寧に並べて干すのとでは、仕上がりがまったく違ってきます。

 朝日が出る頃、塩水の樽から出し、こちらでは「おり板」と呼んでいる広い木の板の上に、重ならないように丁寧に並べます。どの梅にも満遍なく日光が当たるように、時々、上と下を返したりもします。太陽に光の向きは一日のうちでもかわりますので、陽射しに沿うように、干す場所も動かします。そうして夕日が沈む頃、また樽に戻します。雨の日などは干せないので、そういう日は樽の中に入れたまま、静かにお天気になるのを待ちます。

 これを、梅とお天気の状態を見ながら、一週間から十日間ぐらい繰り返します。梅に塩がなじんで、ふっくらとしたシワがよるのが、ちょうどよい状態です。

 干すのを終えたら、また樽に戻します。赤くきれいな色をつけるために、紫蘇を入れ替えます。だいたい漬けてから一カ月くらいすると、食べられるようになります。

p.211-213

 

土を喰う日々ー5月の章ー

湯気の出るタケノコの大皿がトンと置かれる。

唾がジワッと湧いてくるシーンの一つだ。

勉はマチコに「はい」、と大きな輪切りをたっぷり小皿にとり分ける。

待ちきれないように、ハフハフかぶりつくマチコの喰いっぷりもいい。

感動した。日本ではまだまだ固定観念化している男女の役割関係が優しく反転し、まるで力みがなかった。

 

原作者・水上勉さんは、16歳から18歳まで、等持院東福寺管長だった尾関本孝老子の隠侍(いんじ)をされた。隠侍は老師さまの女房役のような仕事を受け持つ。箸で食べ物を取り分ける、何気ない仕草は、そんな背景を表現しているようだ。

 

私は一人の人間には、女性的要素と男性的要素が両方備わっていて、自分の中で2つを十分に生かしきれれば、幸せではないかと思っている。私の中の、人間の理想の姿のようなものを、勉の中に見た気がした。

 

*筍とわかめの炊き合わせ

 米のとぎ汁か、ぬか一つかみに赤唐辛子を少々入れた水に、穂先と根元を切り捨ててからよくゆでるのだが、串を通してみて、ゆでかげんを見るころに、ぷーんと鼻にせまるあの匂いは何ともいえない。土の中でうずくまっていた五月の竹の生気がゆで汁の中で煮えあふれ、土の産む生きものの精が泡立ってくる感じだ。 

 よくゆでたのを根の方から一センチぐらいの輪切りにして、昆布だしに、醤油、砂糖で煮つめる。しあがり前にわかめを加えるのだが、山椒の葉でも飾って、朱の腕に入れて出そうものなら、筍のクリーム色が朱に浮いて、わかめは新葉のような彩りを見せる。 p.88

 

*味覚がひらく記憶の暦

人間は、不思議な動物で、口に入れる筍の味覚のほかに、とんでもない暦のひき出しがあいて、その思い出を同時に噛みしめる。(中略)口に入れるものが土から出た以上、心ふかく、暦をつくって、地の絆が味覚にまぶれつくのである。これも、醍醐味の一つか。p.99

・生家の筍(若狭)

生家は地主持ちの孟宗藪にかこまれていたが、一本伐るだけでも地主に叱られるので、筍がむらがり出ても眺めるのみだった。地主は掘った中から1、2本を母に渡して帰っていく。

五人もいる子供らが、犬のように喰ってしまえば一食で終いになった。どこの戸をあけても、藪じゅうが筍だらけなのに、生つばを呑んで暮らした五月の、あの他人の薮の眺めは一生わすれていない。 p.91

相国寺衆院の孟宗薮、和尚と筍掘り(京都)

9歳から口減しのために、京都の寺へ出される。

「地めんに出とるようなのは堅いでな」

と和尚はいったものだ。つまり、頭が見えるか見えないかぐらいに出ているのが喰いごろだというのだった。(中略)筍の穂先がとがり、草でも生えたみたいにのぞいている。これを、ずいぶん遠くから、つまり、一尺ぐらいへだてたところへトンガを打ちこんで、力いっぱい柄を押すと、キュッキュッと音を立てて土に出たところは茶色いが、うもれていたところは白クリーム色で、肥(ふと)い図体をみせてあがってくる。根のところは、小豆でもならべたみたいに、ぶつぶつがつき、やわらかい毛根が八方へのびている。 p.91

・庭に植えた孟宗竹と妻との葛藤(東京・成城)

幼い頃に大きくなったら自分の筍を喰いたいと願ったように、玄関から門にいたる道わきに孟宗を植えた。はじめの数本が、百本あまりに増え、蚊やぶよの巣となった。これが妻の不興を買う。軽井沢に書斎を移したのを機に、妻は竹を二十本ほどまでに伐る。

結局、竹の嗜好で離婚するわけにもゆかないので、ぼくは、淋しくなった庭の竹をみてがまんしている。 p.98

 

*五月は畑しごとが多忙になる

やがてくる夏の茄子、胡瓜、花豆、トウモロコシ、唐辛子、夏大根のタネまきや移植。

・山鳩との豆争い

ユーモラスなシーンとして印象に残る場面。

軽井沢の山鳩は、豆のまく旬をよく心得ていて、どこかからにらんでいる。まいたあと書斎へ入ったスキに畑へおりてきて、いくらうめておいてもきれいに掘りおこして喰ってしまうのである。それで、ぼくは、まず、竹竿を持って、そこらじゅうの樹のてっぺんまで威嚇しておいてから、大急ぎでまくことにしているのだ。(中略)

山鳩と喧嘩しながら、豆を植えるのも、山のくらしが醍醐味で、収穫の日がきて心ふくらむのも、そういう暦があるからである。p.105-106