折口信夫『死者の書』(十〜十ニ)

十)では、郎女がどんな風に育ったのかかが語られて、

十一)、十二)は春分から2日目の庵、となります。

 

十)の「人と鬼との間に交わされた誓い」という箇所で、

ふと漫画「イティハーサ」を連想しました。

昔好きで読んでいたなぁ。。

 

 

 

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十)石城(いしき)の家の乙女

 

乙女の寝所を男が訪れる「妻どい」の風習は、特にこの国では珍しくはない。

 

けれどかつては家々に石城のある村と、ない村とがあり、それぞれに慣習が違っていた。

 

石城のある村では、大昔、人と鬼(もの)との間に交わされた誓いによって、家のぐるりを囲む石垣より内へは、鬼神も人も入らない取り決めがなされたという。一方、石城のない村では、家に自由に人が出入りし、妻どいが行われた。その習慣が、石城の村へも浸透してきたのだ。

 

大伴家も、藤原家も、石城の家を構え、数十代にわたり宮廷に仕えてきた家筋だ。しかしこうした家でも、妻どいは徐々にあたりまえとなっている。男たちは歓迎しているが、女たちはいい顔をしていない。

 

南家の美しい郎女にも、一群の取り巻きがいた。けれど、この家の石垣が防波堤となり、また女部屋の姥たちが、寄ってくる男どもを剣もほろろに追い返し、手紙もひったくり、姫には決して渡さなかった。

 

「高貴な身分の方が才(ざえ;知識)を習う必要はありません。

 そういったことは身分の低いものがすることですよ」

 

と、姥たちは郎女を諭したものだった。しかし成長するにつれて、飛び抜けた知性と探究心を示すようになった郎女に、姥たちは舌を巻き、目を見はり、困り顔で、もう自分達の力が及ばなくなったのを悟った。ついには、いっそのこと、郎女の望むままに学ばせてもよいのではないか、と思いはじめていた。

 

そんな折、不思議な偶然があった。

 

まず姫の部屋から、「法華経」と「楽毅(がっき)論」が発見された。これは父横佩右大臣が、若い頃から肌身離さず持っていた書で、姫にとっては曾祖母、大叔母にあたる方々が手づから写したものだった。父は留守の間、娘の守りにと、誰にも言わずそれを置いて行ったのだ。郎女が一心にこれを習っていると、続いて、元興寺から「仏本伝来記」が届けられた。これは二十年前、姫の父が、祖父の7回忌に書き綴り、寺へ納めたもの。それから郎女は来る日も来る日も、それを手写した。

 

姫は父の書いた文字を写しながら、智慧がしみじみと心に入るのを覚え、曾祖母、大叔母、父、そして何よりも御仏に感謝した。

 

十一)鶯の物思い

 

春分から2日目 万蔵院の庵)

 

うららかな春の陽射し。

 

外の鶯の声を聴いているうちに郎女は、家で姥から聞いた昔話や、蓮の茎の繊維から作られる織物の話、そして小耳にはさんだ若人たちの会話を思い出す。

 

ー昔話ー

 

多くの男に言い寄られた出雲のある乙女が、その煩わしさに山林に逃げ、いつしか鶯になった。郎女は、その昔話の乙女に自分を重ね、せめて蝶飛虫にでもなって、あの山の頂へ、俤(おもかげ)をつき止めにいきたい、と願う。

 

ー若人の会話の回想ー

 

「鶯のあの声は、法華経法華経と鳴いているのですって。

 天竺のみ仏は、女は助からないと説き続けてきたのだけれど、

 その教えの果てに、女でも救う道が開かれて、

 それを説いたのが法華経だというのよ。

 法華経法華経と唱えるだけで、苦しみから助かるのよ」

 

「それじゃぁ天竺の女が、あの鳥になって、

 み経の名を唱えているというの?」

 

郎女はふと、写経千部の願を立てながら、果たせず死んでしまった可哀想な女子が、鶯になったのではないかと考えた。もし千部写経を果たせなかったら、自分も鳥か虫にでも生まれて、切なく鳴き続けるだろう。

 

そんな郎女の物思いは、当麻の老婆が蔀戸をつき上げる大きな音で破られる。

 

しばらくして、庵の外に寺の奴、僧、一般人の一群がガヤガヤとやってくる。

 

外で「まず、郎女様を」と家長老額田部子古のがなり声がしたかと思うと、表戸が引き剥がされた。すかさず郎女の乳母が、前にサッと立ちはだかる。姫の姿が庶民の目に触れぬよう守るためだ。旅用意の巻布を垂らして、即席の几帳が整えられたが、乳母は頑として前から動かない。

 

十二)姫の判断

 

怒り心頭の額田部子古は「郎女様をすぐにもここから返さぬなら、公に訴える」と息巻くが、寺方は寺方で「結界を破ったからには、長期の物忌をして贖いはしてもらわなければならぬ」と譲らない。

 

まだそこにいた当麻の老婆が

 

「それは寺方に理がある。お従いなされ」

 

と言って、乳母につまみ出される。乳母は、

 

「この上はもう郎女様のお心による外はありません。強いて帰れないこともありませんが、郎女様、ご思案くださいませ」

 

と判断の難しい問いかけをした。乳母も、子古も、聞いても無駄であろうと思っていた。ところが、姫は凛とした態度で即座に次のように答えた。それは、すべての者の不満を圧倒するものだった。

 

姫の咎は、姫が贖う。

此寺、此二上山の下に居て、身の償い、心の償いした、

と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。(本文より)

 

乳母も古子も、この育ての君の冴え冴えとした言葉に感じ入り、涙する。

 

子古は、難波に留まる郎女の父君が、今日明日にでも太宰府へお発ちになるかもしれないことを思い出し、こうしてはいられぬ、急ぎ難波へ行くと、寺方に馬を借りて出立する。

 

子古が行ってしまうと、再び静な春の夕。郎女は乳母に誘われ、家人が人払いをした外をそぞろ歩き、花の名を尋ねたりする。

 

「夕風が冷たくなって参りました。内へ遊ばされませ」

 

と乳母が言う。郎女は山並みを見渡す。二上の男岳の頂が、赤い日に染まり、山はのどかに夕雲の中に入っていこうとしていた。