やわらかな心をもつ

1月の3冊目。

やわらかな心をもつ―ぼくたちふたりの運・鈍・根 新潮文庫

やわらかな心をもつ―ぼくたちふたりの運・鈍・根 新潮文庫

これも、夫の書棚から拝借して読みました。数学者広中平祐と指揮者小沢征爾の対談です。1976年の5月というから、2人の年齢は40代。お互いに友人であり、海外で認められ、仕事でも脂ののりきった時に行われたもののようです。その時私はまだ4歳で、2人は私の父と同じ年頃ですので、当時の雰囲気を文の端々に感じながら同時代を生きた父の姿に思いを馳せたり、またぐるっとまわって今40代が見えてきた私の中に共感できる部分も見いだしたりしながら読みました。あと夫の考えの基本ともかなり近い。。(この本からパクったわね〜と思ったり)いくつか、心に残った箇所を書き出したいと思います。

広中平祐の言葉「自分のペースでやる」
競争心っていうのかな。1人の人間の、成長する過程でさ、ある時期は非常にひとりだちでいかなければならない時があるわけ。要するに誰それと、どう比べてどうのこうのいうのでなく、自分のペースでやるっていうことが非常に大切で、それに実際楽しいわけよね。そうしないとさ、表面的に出たものだけで、比較するでしょ。たとえば一つの数学の理論を作ってる場合にしてもね、ある種の理論っていうのはある時にポッと伸びて行ってさ、それから行き詰まってね、そのころにまたほかの人の理論がそれまでなんかぐずぐずしてたのがパッと伸びてくるとかね。こういろいろ伸び方の違いがあるわけでしょ。だからある理論がパッと伸びて注目されると、すぐにそこにくっついていく人はさ、いつまでたっても他人の後を追っていることになるわけよ。

かえってね、頭が良くて、何でもとびついていける人はね、小賢しい仕事はどんどんできるわけだけどさ、ほんとうの独特のもの、自分だけのものっていうのが出てこないよね。他の人と比較して誰がどうしたから自分もどうのこうのというような態度というものは、ともすれば小賢しい方へ行っちゃうわけだ。結局自分だけのもの、ほかの誰にもないっていうものをつくれない。ともかく自分のペースで進んでいってね、そこに何とか自分独自のものを築いていくほうが、結局長い目で見ると得なんだけれどね。

小沢征爾の言葉「父親の愛情」
ぼくはね、NHKでね、トラブルがあったことがあるんですよ。ぼくはうんとやられちまったわけよ、いろんな周りの人から。もう十五年くらい前かね、そのときおやじがね、こういうことを言ったんだよね。「あいつはおれの息子だから、あいつはぜったいにおれが助ける」と。「おれが助けてやる」と。どんなことだかわからないんだよ、どういうことが起こったかも知らないもの、おやじは(笑)しかも、「征爾は正しい、自分はそう思う。なぜかというと自分の息子だから。」なにもわかってないで言ってるんだから、もうメチャクチャなんだよ。もう、酔っぱらいが言ってるような話なんだから。(笑)それでね、おまけにその話、週刊誌かなんかの人がね、取材に来た時に言っちゃった。おまけにこういうふうに言ったのさ。付け足しがね、人殺しをしなかったらねー息子が人殺しをしていないんだったらね、ぜったいに息子が正しくて、ぜったい自分は息子を助けると。(笑)でもそれはね、無茶な話だけど少し真理があるんだよ、いまから考えると。自分が育てた子供だから、やったことに間違いがないっていう、自分が責任取るようなとこもあるんだよね。それから、息子だからぜったい自分は助ける、と。ほかの理由は無いんだよ、なにも。正しいから助けてやるっていうんじゃないんだよ。

広中平祐の言葉『広中さんのおやじさん」
ぼくのおやじは若い頃かなり金持ちだったわけよ。といっても彼が働き盛りのころって意味だけど。もっと若いときは丁稚奉公なんかもしてたみたいだけどさ、その後、運もよくて次第に商売が調子に乗って、やがては町工場まで作ってさ。小さな田舎町の話だけど、町の人から「お金持」と呼ばれるようになっちゃった。ところが終戦の時には、二人の兄貴は戦死してたし、財産税は取られるし、それから田圃なんかかなりあったけど、農地改革でなくなるし、その上持ってた株なんかも、満鉄とか台湾製糖などで、いまあるかないか知らんけどさ、そういう会社の株なんか持っててパーになっちゃったわけだ。終戦でいっぺんに貧乏になっちゃったわけ。それで人間的にも潰れるかと思うとね、なかなかどうして。昔は丁稚奉公やってたんだからって今度は行商始めたわけよ。死ぬまで行商やってた、汽車にひかれてバラバラになるまで、自転車で行商やってた。だからそのころ言ってたんだけど、職業に貴賤はないはずじゃないか、と。言葉だけじゃなくてね、自分でそのように生きてきたわけだ。それからね、ぼくのおやじがね、よく言ってたことだけど、自分の力で食べて行くということが、この世でいちばん大切だと。なによりも大切だ、とね。そのためにはなにも大学なんか行く必要はないって言うんだ。ぼくが大学へ行きたいと言ったらね、大学は学者を作るところだ。勉強もしないで、大学に入れるぐらいのやつが学者になるんだ。勉強しなくちゃ大学にはいれないような者は入らないほうがいいって。(笑)大学に行かなくっても、すぐ商売始めて成功して、それで大学出たひとを、雇えばいいじゃないかと。(笑)

小沢征爾の言葉「父親の死」
ぼくは、ここ(サンフランシスコ)の音楽監督になって最初のコンサートの一週間前におやじが死んだからね。おやじは、パスポートももう出来上がっていたんだから、ここへ来るために。一週間おくれて死んでたら、サンフランシスコで死んだことになるわけ。おやじが死んだら、なんていうのか、まったく1人になった気がしたね。あれ、変なもんで、なんていうのかね、おれはしっかりしなくちゃだめだと思うわけよ。そうすると、いろんな、この仕事の、量じゃないんだけど、重みが深くなったわけよ。指揮ぶりまで、少し変わったみたいね。ずいぶん気がつかなくって、人に何回か言われて、いろんな人から言われてなるほどと思って、自分でも少しわかってきた。いまごろになってくると、いつごろだいたい変わったなんていうのが、だいたいわかった。

広中平祐の言葉「奥さんの仕事」
ぼくは昔からわがままなんだけどさ、ワイフに、仕事しろ、仕事しろって言ってきたわけ。人間なんていうものはさ、仕事しなきゃだめだって言うわけよ。自分で金を稼ぐことだって意味がある。掃除婦でもなんでもさ、とにかく、金を稼ぐために仕事をするってことを通じて人間と人間の対応を経験するわけでしょ。たとえば、変なマダムのとこへ行って掃除してさ、いろいろ文句言われるかもしれない。そういう人とも対応しなければいかんでしょ。で、対応する中で、人間ていうのが、少し磨かれると思うんだ。なんでもいいから仕事につけ、仕事につけって言っていたわけよ。まあ、子供の小さいうちはたいへんだよね。一方ではさ、家のことをちゃんとやらなくちゃいけない。家にいないと、時々、子供やぼくの機嫌が悪くなるわけだ。で、一方では、仕事しろ、仕事しろ、なにか職を持て職を持てって。(笑)でさ。。。。怒っちゃってね。(笑)

広中平祐の言葉「岡潔さんの言ったこと」
ぼくはじめて日本に帰った時に、日本の数学会に特別講演てのがある、例会の中でね。で、そのときぼくも特別講演てのをたのまれて、したんだけど、岡さん、聞きにきてたわけだ。で、ぼくは講演の中でいろいろ問題出したの。最初にいちばん理想的な問題を提供してね。それに少し条件つけて、これくらいだったら正しいかもしれない、それでも難しかったらこのくらい条件つければその問題が解けるかもしれない、どんどん条件つけていったわけだ。すると、岡さん、立ち上がってね、その態度はおかしいっていう。「もっともっと難しい問題にしていくべきだ。あなたのような態度じゃ問題解けない」というわけだ。何かやってそれが解けなかったら、もっといい問題をその次に考えろ、と。もっと難しい問題を。(略)岡さんて偉い先生だからさ、どうもありがとうございましたとひき下がったけどさ、内心では、ちょっと勝手なこと言ってやがると思ったわけ。だけどね、面白いことにね、ぼくがその問題を結局解いた時にね、いちばん難しい形で解けたんだ。易しくした形じゃ解けなかったのに。その意味わかる?

わかんないでしょ。フフフ。こういうことなんですよ。たとえば、ある条件をつけてこう狭くしていくとほんとは易しいはずだよね、論理的に言えば。だって結論は同じで、条件は強くなるんだから。ところが余分な条件つけると、それにとらわれて、ついそれをなんとか使おうとするでしょ。で、結局、問題の本質を見失うわけよ。だから、もっともっと、その問題を一般化してね、もっともっと理想的な命題に作り直していく。そうすると、最後には問題の本質までいっちゃってさ、サァーッと解けちゃう。問題の本心が見えてくるわけよ。岡さんの言ったとおりになっちゃったわけよ。

●広中さんの夢「日本で私立研究所を作る」
(億以上のお金が必要という話に続いて)
でも、こう思うんだ。ぼくは山口県から出てきたわけだ。山口県にね、松下村塾ってのがあったわけよ。それ、ひょっとしたら金いらなかったんじゃないかと思うわけよ。で、金のないところから出発していったらいいんじゃないかと思うんだけとどうだろう。