オフェリアと影の一座

今日の読み聞かせで、4年生のクラスに読んだのは、20分と時間のかかるこのお話でしたが、こどもたちはよくついてきてくれました。。

オフェリアと影の一座 (大型絵本)

オフェリアと影の一座 (大型絵本)

選んでから、こういう訳で自分はこれを選んだのだな、というのがわかってくるのですが。
先日のこと、夫が買っていた雑誌
BRUTUS (ブルータス) 2007年 2/1号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2007年 2/1号 [雑誌]

をめくっていて、中沢新一さんと茂木さんの対談が面白かったのです。特にその中で中沢さんが

心のエネルギーは必ず正/負が一体になって出てきます。江戸文学も非常に軽く見えます。「東海道中膝栗毛」の弥次喜多の話は、最初から最後まで冗談ばっかり言って軽いんだけど、背後にもう底なしの暗黒が広がっているんですよね。この世界の板子一枚下はもう地獄、みたいにね。

と話されていた箇所に惹かれました。弥次喜多が実は若い頃に男色の間がらで、互いに家庭は持つけれども結局悲惨でうどうにもならない所までいって、あの旅は、2人の一種道ゆきの話だというのが心に残ったのです。あらためて東海道中膝栗毛をネットで拾い読みしてみると、なんだか今と道徳観念が違うといいますか、頭がクラクラしてくるような感じがありました。けれども同時に、文学だけでなく落語にしても、狂言、能、歌舞伎にしても芸能といわれるものは、それこそおそろしいほどの世間の闇の上にのっかる舞台で行われていて、その暗闇を知る深さによって芸というものが成り立っているのだろうな、という気もしたのでした。

それで、絵本に戻るわけですが「オフェリアと影の一座」のオフェリアおばあさんは、長年舞台の小さなボックスで役者のために小声で台詞をささやく仕事をしてきたのですが、劇場が閉まってしまったと同時にお払い箱になり、その日から影がいくつも、オフェリアさんの前に現れるようになるのです。彼女は影たちを受け入れます。そして、影に芝居の台詞を教え、やがて「オフェリアと影の一座」として有名になるのですが。。ある日雪道で、彼女はそれまで出会った影とは比べ物にならないほどに暗い影と出会うのです。その名前は「死」。けれどもオフェリアさんはその影も「どうぞ、いらっしゃい。」受け入れるのです。そして天国、あの世の側では影が光へと反転するという終わり方になっています。こういった救いが日本にはあるのかな、という思いがふとしましたが、舞台が持つ影、という所では西洋もきっと同じなのでしょうね。。