十九号室へ

短編集の最後の作品「19号室へ」は、以前見た映画「めぐりあう時間たち」を思い出させました。世間的に見れば、白い大きな家に住み、4人の子どもと理解ある夫がいて、家政婦も雇える、何の不足もないいわば人生の成功者といえる女性(スーザン)が、だんだんと精神的に崩壊していく様が描かれています。私には手に取るようにスーザンの見た悪魔がわかりました。私自身の内にもそれはあると告白しなくてはならないものを、ドリスは品位を失わずに書いています。。

前に、エミリー•ウングワレーの絵で、くもの巣のように絡んだ作品のことに触れましたが、スーザンもまた何かに絡みとられて動けなくなっていると感じられました。今という時間は、常にまだやって来ない先のことのために費やされていく。(でないと現実はまわっていかない面もありますが。。)それは砂をかむように空虚な時間の連続。。スーザンはこぼれ落ちる「今」を自分の中で充足させ実感したかったのでしょうか。夫に言えずに呑み込んだ言葉

自分がどうしても自由だと感じられないってこと、あなたにわかって?忘れてはいけないことは何もないのよとか、30分、1時間、いえ、2時間の内にしなければいけないことは何もないのよとか、自分に言い聞かせられるときがぜんぜんないの。。。


彼女は誰にも内緒で10時から午後5時の間家から逃げ、場末の汚いホテルの19号室でただ1人で何もせずに座って過ごすようになります。その時間にだけ自分というものがある気がします。彼女は息もつまりそうなほど絡んだものをそこでは取り去ることに成功するのですが、今度は現実のほうが彼女から離れていき、あるとき現実ではどこにも、彼女を必要としている場所がないことになっているのです。それは彼女が意識して、いや無意識の彼女の破壊的な悪魔がそうもっていったように思えます。。そして、彼女のとった行動は。。

これが書かれたのは1970年頃ということでしたが、それから40年近く経ってどのように女性は変化したのでしょう。。何も見ず、次への段取りに没頭して、一生を終えられれば自分の狂いそうな深淵をのぞくという事にはならないかもしれません。エミリー•ウングワレーは、その暗闇を見て知っていたでしょう。でも彼女のような開放の境地へ自分はたどり着けるのかどうか。。

そんなことを考えていたら、大江健三郎の「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」という作品の題名がなぜかふと浮かび、その言葉があるリアルさをもって感じられてきました。