空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

読み終わってしばらくしてから、物語の各パーツがふと夜中などに蘇って来てなるほどと思ったりする。読み終わった直後は分人というものを表面的な切り分けと思い、そんなにスマートには私にできそうにないと思っていたりしたのだけれど。。日本人の古くからの意識や宗教ともつながりのある話ではないかと感じてからは違う見方ができるようになった。。ある晩、この物語は、能の隅田川のように、亡くなった方、大切な人を亡くした方の無念や怨霊を鎮め癒す、いわば鎮魂の話なのではないかと思うとすとんと腑に落ちた。

3.11の晩、私は暗闇の中で枕元の新聞紙に自分と息子の靴を置いて余震の度に起きながら、阪神淡路大震災の未明を思い出しつつ、おびただしい数の魂が暗闇の中を天空へ昇って行く幻覚を闇の中に見つめていた。。亡くなった人が蘇り何故自分は死なねばならなかったのか、それをつきとめようとし、思いを語るという設定は非現実的ではないような気がした。

平野さんは、お父さんが亡くなられた年齢に自分が達したこと、宗教を持たない人間がどのように生きていったらいいか、また東日本大震災を意識しながら書いたというようなことをラジオでおっしゃられていた。この話は宗教にほとんど肉迫して書かれているように思える。登場人物がすべて主人公の分人であると思うと、この小説は1人の人間を描いていると言える。。徹夫の中にはキリストのように他者の為に命を捨てたラデックも、悪魔の虚無の囁きをする佐伯も存在する。物語の後半の展開の鍵に、ゴッホの多数の自画像の解釈が出てくる。(ゴッホは、父のように牧師になろうとし炭坑へ入ったこともあった。絵画への情熱の底には信仰の希求があった。)そんなパーツパーツが蘇って再構成される。。私には分人という考え方と、心理学で言う人格(パーソナリティ)との区別がまだ明確にできてない。。その上でだけれど時間的にも肉体的にも有限な人間は自分が持つすべてのパーソナリティor 分人の可能性を生き切るということはできないと思っている(分人のそれぞれが十全な自分自身というようなことを平野さんが言われているので、もう少しその辺をわかる必要あり)。そこには選択が存在する。この小説から受け取ったことは、この窒息しそうな社会の中でも、柔らかく生きづいていける芽は、必ず自分の中に恩寵として用意されているということ。。今の段階の理解はここまで。。