4月の本棚

随所に笑い所のあるお話。お父さんが俳句好きでばしょうと名づけられた男の子、ばしょうくん。学校やお家、毎日くりひろげられる生活の中で俳句をよむと、あら不思議。ちょっとがっくりなさけなかったり、きつかったことも、なんだかほわっとしたり、笑えたり。俳句は、物事を距離をおいて力をぬいてみるツールだってことがわかる。。息子は気に入って2、3回読んでいました。ちょうど去年、息子もばあちゃんに俳句を教わったから、入りやすかったかもしれません。

2年2組はいく先生 松井ばしょうくん (おはなしバスケット)

2年2組はいく先生 松井ばしょうくん (おはなしバスケット)

私のための一冊。「無記」「欠落」「父母未生以前の自己」の言葉に出会った。

人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書)

人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書)

 釈迦は、死後の世界があるかないかそのような問いには答えなかったそうだ。これが無記。「ある」と答えれば「ない」世界が否定され「ない」と答えれば「ある」世界が否定される。。世界の実相は「ある」と限定したものでも、「ない」と限定したものでもない。。そこを見つめよ。。大学時代に、社会学アウフヘーベンという言葉を習って感心したことがあったけれど、それに似ている。。
南さんは言う。。原始仏教の原典を読むと全然癒しなどから遠いと。この感じ、わかると思った。父の死後、むさぼるように仏教の原典を読んだけれど、悟りとは何と荒涼とした寂しいものかと感じたのだ。煩悩はもとより自分の人間性や暖かな心も捨てなければ、悟りには至れない。。私にはとてもできそうにないやと。。
けれどその先のあることをこの本で学べた。。自己と自分が規定している自己を、禅僧は徹底的に疑い壊す修行をする。座禅をすると、自分の皮膚感覚がいかにあいまいで、内と外の区別がないということが体感できるようになると言う。それは、「父母未生以前の自己」に出会うこと。しかし、破壊だけで終わってしまってはだめだと両氏は強調していた。すべてを打ち壊し名前もない無記の中から、再び自己を(禅ならば仏教の教え(中道)に従って)構築していくことが最も困難で大事なことなのだと。。これは、ユングの言うミッドライフクライシスとも通じる気がする。そして再構築の際に自分が何を選ぶか、どちらに自己の全存在を賭けるかは、たとえ地獄におちようと後悔しないというような覚悟がいる。
人間は自分は何故ここにいるかという根拠を持たない、とはっきり言いきっているところも、すとんと入ってきた。自分で選んだ肉体、環境に生まれてきた人はない。。存在に根拠がないという「欠落」をはじめから抱えている。その欠落を埋めることはできない。しかし欠落(の苦、悲しみ)を欠落として自らに引き受けた時、世界のリアルが目の前に立ち現れ、欠落を一瞬埋める魂の喜びの閃きに出会うことができる。何と言う苛烈で哀しいパラドックスだろうか。。