これも私が小学校5、6年の頃ワクワクして読んだ本。トール•ハイエルダールさんの、トールという名は北欧神話に出て来るハンマーを持った怪力のトール(ソーとも読むらしい)だとはじめて気づきました。
- 作者: トール・ハイエルダール,古賀亜十夫,池田宣政
- 出版社/メーカー: あかね書房
- 発売日: 1975/07/30
- メディア: 単行本
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私が小学生の頃に読んだ北欧神話。。息子にもすすめました。
息子は去年引っ越してきた小学校で、生まれてはじめて学芸会なるものを体験しました。5年生はライオンキングを短くまとめた劇。息子が演じたのは猿のラフィキ。発した台詞は2言だったけれど、よい思い出になったのではないかな。。ここからは劇団四季の劇場も割と近く、よい演目があったらぜひ生の演劇を見せに行きたいなと思っていました。そんな折東日本大震災後、劇団四季がチャリティーとして東北各地の学校を巡って公演した「ユタと不思議な仲間たち」を、この地でも12年ぶりに公演すると知り、見に行ってきました。
物語は、東京で暮らしていた小学6年生の勇太「ユタ」が、父を亡くしたことがきっかけで母の郷里の岩手に引っ越してくるところからはじまります。けれど新しい学校では村の子に「もやしっこ!」「おんなみたいなやつ」といじめられる毎日。そんなユタは、ある日おじいさんが満月の晩に会えると言った座敷わらしに会ってみようと一人、大黒柱のある座敷に寝てみるのです。そうして出会った5人の座敷わらし。。彼らは東北地方をかつて飢饉が度々襲い、親が育てきれず、捨てられたり、産声をあげる前に「お返し申す」と殺されたりした、幼い子どもの魂でした。。その座敷童とユタは仲良くなり、彼らに鍛えられやがてたくましく成長する。村の子ども達とも友達になっていく。
息子も今度の春でちょうど6年生です。引っ越してきてから友達が沢山できるまでには、やはりユタのようにいろいろな出来事、くぐり抜けたと言えることがありました。その姿とも重ねながら、隣の席の息子の横顔を見ながらの観劇となりました。
1972年(私が生まれた年)に封切られたこの映画を、前々から気になっていたのだけれど、ようやく見ました。アッシジの聖フランチェスコの物語。高山寺の明恵上人と同時代の人で似ていると言われるのは確かに。。小鳥と話し、あるべきようは。。を問い直していく。水底の小石にカチっと触れた。
Brother Sun and Sister moon
I seldom see you
Seldom hear your tune
Preoccupied with selfish miseryBrother Wind and Sister Air
Open my eyes
To visions pure and fair.
That I may see
The glory around meI am God's creature
Of Him I am part
I feel His love
Awakening in my heartBrother Sun and Sister Moon
I now do see you
I can hear your tune
So much in love
With all that I survey
前の小学校で一緒に読み聞かせで活動をしていたお母さんたちから、3学期この本の4章を5年生に5回に分けて全クラスで読み聞かせをするというメールをいただきました。何か1つのものを一緒に読んだ記憶を共有したいという思いがあると聞いたので、遠く離れたこの地でも息子にはじめから読んでいくことにしました。
3.11の晩、私は暗闇の中で枕元の新聞紙に自分と息子の靴を置いて余震の度に起きながら、阪神淡路大震災の未明を思い出しつつ、おびただしい数の魂が暗闇の中を天空へ昇って行く幻覚を闇の中に見つめていた。。亡くなった人が蘇り何故自分は死なねばならなかったのか、それをつきとめようとし、思いを語るという設定は非現実的ではないような気がした。
平野さんは、お父さんが亡くなられた年齢に自分が達したこと、宗教を持たない人間がどのように生きていったらいいか、また東日本大震災を意識しながら書いたというようなことをラジオでおっしゃられていた。この話は宗教にほとんど肉迫して書かれているように思える。登場人物がすべて主人公の分人であると思うと、この小説は1人の人間を描いていると言える。。徹夫の中にはキリストのように他者の為に命を捨てたラデックも、悪魔の虚無の囁きをする佐伯も存在する。物語の後半の展開の鍵に、ゴッホの多数の自画像の解釈が出てくる。(ゴッホは、父のように牧師になろうとし炭坑へ入ったこともあった。絵画への情熱の底には信仰の希求があった。)そんなパーツパーツが蘇って再構成される。。私には分人という考え方と、心理学で言う人格(パーソナリティ)との区別がまだ明確にできてない。。その上でだけれど時間的にも肉体的にも有限な人間は自分が持つすべてのパーソナリティor 分人の可能性を生き切るということはできないと思っている(分人のそれぞれが十全な自分自身というようなことを平野さんが言われているので、もう少しその辺をわかる必要あり)。そこには選択が存在する。この小説から受け取ったことは、この窒息しそうな社会の中でも、柔らかく生きづいていける芽は、必ず自分の中に恩寵として用意されているということ。。今の段階の理解はここまで。。