コンチキ号漂流記

これも私が小学校5、6年の頃ワクワクして読んだ本。トール•ハイエルダールさんの、トールという名は北欧神話に出て来るハンマーを持った怪力のトール(ソーとも読むらしい)だとはじめて気づきました。

コンチキ号漂流記 (少年少女世界の大探検 1)

コンチキ号漂流記 (少年少女世界の大探検 1)

これも息子にすすめてみようと思っています。

神々のとどろき

神々のとどろき―北欧神話 (1976年) (岩波の愛蔵版)

神々のとどろき―北欧神話 (1976年) (岩波の愛蔵版)

私が小学生の頃に読んだ北欧神話。。息子にもすすめました。

ユタと不思議な仲間たち

息子は去年引っ越してきた小学校で、生まれてはじめて学芸会なるものを体験しました。5年生はライオンキングを短くまとめた劇。息子が演じたのは猿のラフィキ。発した台詞は2言だったけれど、よい思い出になったのではないかな。。ここからは劇団四季の劇場も割と近く、よい演目があったらぜひ生の演劇を見せに行きたいなと思っていました。そんな折東日本大震災後、劇団四季がチャリティーとして東北各地の学校を巡って公演した「ユタと不思議な仲間たち」を、この地でも12年ぶりに公演すると知り、見に行ってきました。

物語は、東京で暮らしていた小学6年生の勇太「ユタ」が、父を亡くしたことがきっかけで母の郷里の岩手に引っ越してくるところからはじまります。けれど新しい学校では村の子に「もやしっこ!」「おんなみたいなやつ」といじめられる毎日。そんなユタは、ある日おじいさんが満月の晩に会えると言った座敷わらしに会ってみようと一人、大黒柱のある座敷に寝てみるのです。そうして出会った5人の座敷わらし。。彼らは東北地方をかつて飢饉が度々襲い、親が育てきれず、捨てられたり、産声をあげる前に「お返し申す」と殺されたりした、幼い子どもの魂でした。。その座敷童とユタは仲良くなり、彼らに鍛えられやがてたくましく成長する。村の子ども達とも友達になっていく。

息子も今度の春でちょうど6年生です。引っ越してきてから友達が沢山できるまでには、やはりユタのようにいろいろな出来事、くぐり抜けたと言えることがありました。その姿とも重ねながら、隣の席の息子の横顔を見ながらの観劇となりました。

Brother Sun Sister Moon

1972年(私が生まれた年)に封切られたこの映画を、前々から気になっていたのだけれど、ようやく見ました。アッシジの聖フランチェスコの物語。高山寺明恵上人と同時代の人で似ていると言われるのは確かに。。小鳥と話し、あるべきようは。。を問い直していく。水底の小石にカチっと触れた。

Brother Sun and Sister moon
I seldom see you
Seldom hear your tune
Preoccupied with selfish misery

Brother Wind and Sister Air
Open my eyes
To visions pure and fair.
That I may see
The glory around me

I am God's creature
Of Him I am part
I feel His love
Awakening in my heart

Brother Sun and Sister Moon
I now do see you
I can hear your tune
So much in love
With all that I survey

だいじょうぶ3組

前の小学校で一緒に読み聞かせで活動をしていたお母さんたちから、3学期この本の4章を5年生に5回に分けて全クラスで読み聞かせをするというメールをいただきました。何か1つのものを一緒に読んだ記憶を共有したいという思いがあると聞いたので、遠く離れたこの地でも息子にはじめから読んでいくことにしました。

私は親としてだけでなく7年間小学校の中に設置された学童保育の仕事をして、その立場から小学校の組織、教師を見る機会がありましたから、ここに書かれてあることは(すごく気を使って書かれてあるのも含め)リアルだと感じられました。乙武さんがラジオで今度映画化されるこの作品について「現実を書くと夢がなくなってしまいますから」(実際には子ども達の願いも虚しく乙武さんの遠足参加が実現されることはなかった。)と話されていました。。乙武さんは相当に分厚い壁に挑んでいったのだろうと思います。ほんの子どもの頃からそうだったんだろうなぁ。。様々な壁への挑戦。3月に封切られる映画も、乙武さんが今度は俳優に挑戦されているという一点だけでも見たい。

空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

読み終わってしばらくしてから、物語の各パーツがふと夜中などに蘇って来てなるほどと思ったりする。読み終わった直後は分人というものを表面的な切り分けと思い、そんなにスマートには私にできそうにないと思っていたりしたのだけれど。。日本人の古くからの意識や宗教ともつながりのある話ではないかと感じてからは違う見方ができるようになった。。ある晩、この物語は、能の隅田川のように、亡くなった方、大切な人を亡くした方の無念や怨霊を鎮め癒す、いわば鎮魂の話なのではないかと思うとすとんと腑に落ちた。

3.11の晩、私は暗闇の中で枕元の新聞紙に自分と息子の靴を置いて余震の度に起きながら、阪神淡路大震災の未明を思い出しつつ、おびただしい数の魂が暗闇の中を天空へ昇って行く幻覚を闇の中に見つめていた。。亡くなった人が蘇り何故自分は死なねばならなかったのか、それをつきとめようとし、思いを語るという設定は非現実的ではないような気がした。

平野さんは、お父さんが亡くなられた年齢に自分が達したこと、宗教を持たない人間がどのように生きていったらいいか、また東日本大震災を意識しながら書いたというようなことをラジオでおっしゃられていた。この話は宗教にほとんど肉迫して書かれているように思える。登場人物がすべて主人公の分人であると思うと、この小説は1人の人間を描いていると言える。。徹夫の中にはキリストのように他者の為に命を捨てたラデックも、悪魔の虚無の囁きをする佐伯も存在する。物語の後半の展開の鍵に、ゴッホの多数の自画像の解釈が出てくる。(ゴッホは、父のように牧師になろうとし炭坑へ入ったこともあった。絵画への情熱の底には信仰の希求があった。)そんなパーツパーツが蘇って再構成される。。私には分人という考え方と、心理学で言う人格(パーソナリティ)との区別がまだ明確にできてない。。その上でだけれど時間的にも肉体的にも有限な人間は自分が持つすべてのパーソナリティor 分人の可能性を生き切るということはできないと思っている(分人のそれぞれが十全な自分自身というようなことを平野さんが言われているので、もう少しその辺をわかる必要あり)。そこには選択が存在する。この小説から受け取ったことは、この窒息しそうな社会の中でも、柔らかく生きづいていける芽は、必ず自分の中に恩寵として用意されているということ。。今の段階の理解はここまで。。

1月の本棚

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

小学6年生男子が主人公。塾仲間サッカー仲間3人組。人が死ぬところを見てみたい、と近所のボロ屋に住む老人の観察をはじめるが、見られはじめた老人は逆に元気になっていく。そして生まれた老人との交流。物質的には一見満たされている少年の背後に垣間見える家庭は、母親がキッチンドランカーになっていたり、父親が他に家庭をつくり母子家庭だったりどこか薄暗い。その負荷を小さい身体いっぱいに受けているのが感じられる。けれども、老人と親しくつきあううちに段々彼らにも変化が起こってくる。夏の庭とはおじいさんのボロ家の庭。そんな庭がどの少年にもあってほしいと思う。
新版 指輪物語〈2〉/旅の仲間〈下〉

新版 指輪物語〈2〉/旅の仲間〈下〉

だいじょうぶ3組 (講談社文庫)

だいじょうぶ3組 (講談社文庫)

中陰の花 (文春文庫)

中陰の花 (文春文庫)

お寺の住職さんとおがみやさんというのは、その考え方において遠くて、意外と近くに居るもののようだ。恐山のご住職である南直哉さんも、恐山のおがみやさんについて書かれていた。おがみやさんを肯定も否定もしないところはこの小説でも同じだった。実は私も、奈良の西大寺の隣に、有名なおがみやさんがいると友達に聞いて会いに行ったことがある。とてもやさしそうな小柄なおばあさんだった。お寺の隣というのをおがみやさんも選んでいるような気がする。この小説には、臨終間際のおがみやさん、4年前に子どもを流産した住職夫婦というのが出てくる。仏教というのが論理で構成されていてプラクティカルな男性性親和的なものだとすると、おがみやさんは論理を度返しにして儼然とそこにある苦痛を癒そうとする女性性親和的なものに思える。僧侶である人は、その両義的なものに肯定も否定もせず気づいている。。仏教に惹かれるのはそういう所だなぁと思える小説だった。