高野聖

今週の授業は泉鏡花の「高野聖」。この週末、近所の図書館へ息子と行ったついでに、借りてきました。授業では、この作品が日本的伝統につながる作品なのか、それとも現代的な視点で書かれたものか、を議論するとのこと。答えは「どちらにもとれる」ということだけは鍵として教えてもらっていました。それを手がかりにして、読んだのです。昔読んだはずが、ずいぶん忘れていましたが。。すぐに感じたのは、これは村上春樹にもつながっている。。ということ。(その意味では現代的?)特に高野聖が道を誤った薬売りの後を追い山深く入り、蛭の森を通過するときに頭に浮かんだヴィジョンに、それを強く感じたのでした。

〜このおそろしい山蛭は、神代の古からここに屯していて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛かの血を吸うと、そこで虫の望みがかなう。そのときはありったけの蛭が残らず吸った人間の血を吐き出すと、それがために土がとけて山一つ一面に血と泥の大沼にかわるであろう、それと同時に日の光を遮って昼もなお暗い大木が切れ切れに一つ一つ蛭になってしまうのに相違ないと、いや、全くのことで。。およそ人間が滅びるのは、地球の皮膜が破れて空から火の降るのでもなければ、大海が押っ被さるのでもない、飛騨の国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいにはみんな血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代がわりの世界であろうと、ぼんやり。〜

この箇所では、高野聖が科学的な知識も持ち合わせている近代的な人物なのがわかるのですが、自然(じねん)の深く恐ろしい一面にも遭遇しています。その森は、自分の内面世界と溶け合って外なのか内なのかわからない。。この箇所が具体的には村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」という作品の、あるシーンと重なって浮かんで来たのです。今、家の中を探しているのに、こういう時は必ずといっていいほど見つからないのです。仕方ないので、自分の記憶のざるにひっかかった部分をたよりにいくと、確か東京の地下にとてつもない大きな空洞が作られていて、主人公は案内人の娘とその真っ黒な蛭の沼のようなところを泳ぎ渡っていくところ。。。今、授業が終わってこう書いているのですが、授業前は、混沌としていて、この作品が日本的なのか西洋的なのかさえつかみどころがなかった。。しかし、授業で色々な人の意見を聞くにつけ、自分の中で腑に落ちるところや整理されるところがありました。

<授業>
明治に外国小説の翻訳も入ってきて、小説の書き手たちに影響を与えた。それは主体がはっきりしており、主人公の精神世界が物語として展開していく。その頃、同時に言文一致体で書こうという機運が高まる。それまでの日本は書き言葉(漢文)と話し言葉(方言)は異なっているという文化だった。明治期の作家、夏目漱石の作品では、西洋的近代的個人として主人公が内面的に自立しようとするが、その中で苦悩し多くは悲劇的な結末を迎える。根っこは日本的なものにありながら、苦悩している。この頃の作家のスタンスには、「欧米化する方向」、「日本的なものへ回帰する方向」、「そのはざまで苦悩する方向」というものが見られる。

一方、絵画の世界では、日本の陶器がヨーロッパへ輸出された際にそれを包んでいた浮世絵がヨーロッパの画壇に影響を与える。日本の広重の雨の景色の描写など、それまでの西洋絵画では絵の対象としなかった自然を描くことへの機運がヨーロッパで起こった。印象派と呼ばれる人々、ゴッホセザンヌゴーギャンなどに浮世絵は多大な影響を与える。またそれは、日本的自然観への興味、ジャポニスムの動きともなった。

日本側では、逆に西洋文化から自然と人間の分離を読み取って行った。その異文化を受け入れて行く苦労の過程が明治期にはよく現れている。さて、この作品について自由に議論しましょうということで出た様々な意見。

「これは、小泉八雲の世界にもつながるものを感じました。」(日本的)

高野聖が山奥の一軒家で出会った女性は、自然(じねん)を象徴しており、高野聖はそこへ向かう個として描かれている。」(西洋的;高野聖は内面的に自立しようとする人物。彼女と一体化したいという願望は強くありながらも、そこから逃げてくる。最後まで迷う。)

「西洋絵画は、ユリは純潔など、自然に寓意を持たせる形で描かれていると感じていて、この作品にも、いろいろな箇所で自然が意図をもって象徴的に描かれているなと思いました。」(西洋的:たしかに、一軒家へ至るまでの道中、道をとおせんぼするように出てくる大蛇、蛭の森など、「そこ」へたどりつくまでに内面が通過しなければならないものが、構造をもって象徴的に描かれている。)

高野聖というのは、正統な僧ではない。聖というのは、修行はしているが得度はしていない人、修行が足りないのに権力で得度している人など、様々。。またこの高野聖高野山との堅固なつながりもなく、流浪の民として移動していく人である。その意味では、この小説に登場する人すべてが、共同体に属さない人で構成されている。

「西洋の昔話に共通するストーリーとして、長男次男は、共同体に属する側として登場し、三男がそこからはずれて旅や冒険をし、違う価値観や富をもたらすというのが見られる。異なる価値観に触れるには共同体から切り離されていなければならない、というのはあるような気がする」(西洋的?日本的?世界共通?)

「西洋のファンタジーにも登場する、原初の森などを感じました。普遍的な世界を描いていると思います。」(世界共通)

「共同体という意味では、女主人と白痴の亭主、世話するおやじ、動物にかえらた人々のいる一軒家の世界は共同体と言えるのではないか?」

共同体というのは、生業がないと成り立たない。女主人の世界には生業がない。。

「先週風姿花伝で見た、現実と幻の世界、女主人の世界は時間という概念もない「あちら側」「幽玄の世界」ではないかと感じました」

<授業後>
ふと、今「浦島太郎」の物語にも似ているなと思いました。。浦島太郎は、竜宮城でこわいめにはあわなかったけれど、最後おじいさんになってしまうところでツケを払わされている。ということは、命をとられないまでも縮められたのだから、彼は自然と一体化してしまっていたんだ。。でも、高野聖はそれをからくもまぬがれた。そういう意味では近代的自我を持とうとする人物なのかもしれない。。でも、浦島太郎とつながっているということは、古い日本的なものとつながっているわけだ。。

また、蛭の森のシーンにはどろどろとした血糊の強烈なイメージを持つ。聖は、日本でいう「穢れ」をまとう経験をしたのだ。。同時に死にも限りなく近づいたことで、聖の世界から、女主人のいる官能(命)の世界へ入る許可を得たのだ。もしかすると、高野聖は古い日本人の精神世界(自然)に立ちながら、近代的自我の芽をもってその精神世界を表そうと試みた作品とも言えるのかもしれない。。