自分の故郷を理解する。。

今週第2回目の内山節先生の授業。先日、普遍的なものへと書きましたが、この授業では逆に、私の幼い頃の記憶の故郷がどのような社会であったのか、外側から理解しなおすという体験をしました。普遍的なものへ、ではなくまったく自分を理解するという個人的なものへつながっていったわけですが、面白かったです。「忘れられた日本人」宮本常一著がテキストではありましたが、それと重なる内山先生ご自身の第二の故郷群馬の上野村の具体的な話が中心だったためかもしれません。

<授業>
日本の農村では、「寄り合い」が昔から行われて来た。「寄り合い」に集まる一人一人は対等で、いろいろなとりきめ(所有地の境界線、水管理のための作業負担等の話し合い等)は、満場一致となるまで、気の長い時間をかけて行われてきた。決して多数決をとらない。1人でもある案に反対者があると、その反対者が納得して一致するまで、時間をかけていく。その一例にこんな話をされた。反対者は、「この案には賛成できないが、この案をやってみることには納得する。でもこの案をやったあと、もう一度自分の案を検討してみてほしい」という妥協の立場をとる。すると周囲は賛同して、そして必ずもう一度検討するのである。もし、やってみてうまくなく、とりあげなかった案がよいという場合、決して先の反対者は「それ、自分の案がよかったろう!」などとは言ってはいけない。この場合は、他方が「あぁ、あんたの案のほうがよさそうだね。」と言うことでまるくおさめるのである。逆もしかり。また、別の例では、土地の境界線で対立している2人の人があるとする。この場合、第三者として村で人望の厚い年寄りが寄り合いで選ばれ、調停に向かう。老人は、一方の家、他方の家と同じく訪ね、最初は天気の話などし、問題にはふれず帰る。老人がなぜ訪ねてくるのかは、もめている家ではわかっているのではあるが。このような訪問が何度も繰り返される。老人は、そろそろという時を待っているのである。その時とは、その家のものが、こんなにご足労をかけて、申し訳ない、この老人に話をまとめてもらおうかという気になる時である。そうして、ようやく年寄りが「さて、あの土地の境のことじゃが。」と調停案をだし、そこでも調整しながら、間にたって内々の合意、密密の合意をとりつけていく。そして結果は寄り合いで報告される。もし、この調停が時間切れ(田の水のことでもめる場合は、田植えの時には時間切れとなる)でうまくゆかなかったら?その場合には、三方一両損という方法をとる。これは、もめている2人、そして調停者である年寄りの三者すべてが損をする形でおさめるのだ。(今の感覚では、どうして調停者が損を負うのかわからないが、もめた双方の不満はこの老人も損をしたことをとおしておさまり、他の人も納得するのかなと思う。)こんなやり方は非常に時間もかかるし、まどろっこしいが、1つの共同体で同じ顔をつきあわせてずっと暮らす社会では、禍根を残さない、ということが最優先されるのである。もし、多数決で物事を決めると、採択されなかった側は自分が正しくなかったとは思わず、不満が別の形でトラブルとなって現れてくることを、よく承知していたためである。。

<感想>
この方式、実は私は現代でも生きていると感じました。。なぜなら、私が子どもを預けた無認可の共同保育所では、保護者、保育者、運営にかかわる人がすべて対等な発言権をもち、運営委員会に参加していました。これはある種の保育園を自主運営するという運命共同体であり、その話し合いは、全く上のように満場一致をめざしていたなと思うのです。本当に延々と話し合いをする風であったのですが、その底に流れていたのは上の精神ではないかと思い当たることが多々ありました。

<授業>
日本の農村の風景。山があり、谷間を流れる川の上流から水をひいてきて、田畑をつくる。こうした水路は、途中でつまったりこわれたりしやすいので、協力して修理したりしなくてはならない。この水路の管理がまずある。それから、煮炊きをする燃料としては、里に近い山から薪をとってくる。炭はもっと山奥でつくる。薪は炭に比べて重く、また炭より火力が強いので、沢山は運べないが必需品なのだ。ただ、1人が欲張って沢山とってしまうと、他のものが困るので、この山の燃料の管理も共同で行う。水の管理と燃料管理、これらは集落でルールをつくってやっていく2つの大きな柱である。その他、山菜とりなども、自由に行えるが、来年もまた採れるように、木の力を弱らせないように、その採り方にも、細やかなルールがあった。例えば、ヤマウウドの新芽は、一度に全部とらず残し、その年二番目までの芽はとるが、三番目は来年のために残しておくというようなことをする。

<感想>
幼い頃の風景。私の田舎では、山間の谷を流れる川の上流から確かに、水をひいて、段々畑や田んぼに供給していました。上の話とちょっと違うのは、水が足りなくなることもある地方なので、上流からひいた水は、高いところで、いったんため池と呼ばれる池にためられ、その池から海へ向かうなだらかな傾斜に作られた田畑に水路がめぐらされていました。そして、年に何回か、「いでさらい」が行われ、このときには部落の人全員が、水路のそうじをしたり、補修をしたりするのです。我が家は農家ではなく勤め人の家でした。祖父も父も体が弱くそれを主に担った母も、勤め人でしたから、こういう仕事にかり出されるのはずいぶん不満だったようです。だんだん、勤め人の人が増え今では農家のみからいでさらいに人を出すということになってきたと話していたのを思い出しました。それから、薪。私はまだおしめのとれないころ、リヤカーに乗せられて山へ行った記憶があります。これは風呂の焚き付けの薪をとるためでした。私の生まれたのは1972年。。日本が劇的に変わった頃ではありますが、田舎はその波が遅れていたのでしょう。リヤカーでの薪ひろいは、幼い間だけで、それは薪を買うのにかわり、それでも高校生までは、薪をたいて五右衛門風呂をわかして入っていました。雨の日が続くと、風呂に入れず、母がバケツに湯を入れて体をふいてくれたのを思い出しますが、今は考えられないことです。台所は私の記憶ではプロパンガスでした。。また、山菜(たしっぽ、ぜんまい、まつたけ)とりは、小学生の頃まで、近所の山にくわしいおいちゃんと家族で一緒に山へとりにいっていました。松茸は赤松の下にでき、少し土のふくれたところをそっとかくと、ごってりとしたのが隠れているのを、教わりました。山菜とりはお弁当をもって山にあがり、とても楽しかったのを思い出します。こんな風に、授業の話のひとつひとつが、自分の生まれた場所に照らし合わせて考えられるのでした。