風姿花伝

秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず

風姿花伝 (岩波文庫)

風姿花伝 (岩波文庫)

はじめてざっと読みました。。こんな風にブログに書いたりすることは、全く秘すれば花ではない、と思いますが素直に書いていくことにします。なにぶん古文は高校の授業から後、親しんだことがなく、何度も読み返さないと本当の意味はわからない箇所もずいぶんあるのですが、まず目にとまったところからいこうと思います。以前に書いたミドル•パッセージともつながりそうですが、「風姿花伝第一 年来稽古條々」が面白く感じられました。能の道に入った人が年齢を経るごとにどういう心構えで能に向かうべきかというのが書かれている章です。子育てのヒント?もあるように思いました。また過去の自分をふりかえって思い当たる節などが多く、あぁもっと早くにこの本に出会っていたら!(私ももっとまともに大人になっていたのに(笑))と思いましたが、その時はきっと今のようなわかり方はしなかったに違いありませんから仕方ありませんね。。それにしても、「誠の花」が常に念頭にある生き方といいましょうか。。この書の第三までは、世阿弥が37歳のとき(まさに芸が頂点にあり、来し方行く末が見渡せるミドル•パッセージ!)に書かれたそうで、興味深いです。<7歳>この歳で能をやりはじめる。この頃は身に付いたよさがあるので、(子どもならではのあいらしさでしょうか?)心のままにさせるのがよい。あんまり叱ったりすると、子どもはやる気をなくして能をやめてしまう。。<12、3歳>この歳頃では能についてもわきまえができて段々と曲の数々を教えていく。ただこと細かな物まねはさせるべきでない。とにかく、童形というのは何をしたとしても幽玄で、ちご姿の美しさと声のよさがあれば、欠点はかくれ、ますます花めく。ただ、この花は誠の花(稽古と工夫を極めた所に成立する、散ることのない花)ではない。ただ、時分の花(年齢によって現れ、年齢がすぎれば散って行く花)である。この頃はやりよく、得手なところを見せ場にして、態(これは何をさすのでしょう?)を大事にするのがよい。言葉をはっきりと謡い、舞の一つ一つの型をきちんと守って稽古するのがよい。<17、8歳>この年頃はすごく大事。声変わりして、最初の花は消えてしまう。急に背ものびて子どもの頃の美しさも消え、まるきり演じ方がかわってしまうのでやる気を失ってしまう。ここは、人に笑われようと何としようと、心の中に願をたてて、一生の堺は今このときと思い定め、生涯かけて能を捨てないと思う他に稽古はない。。(思春期でいかにも大変そう。。これよくわかるなぁと思いました。)<24、5歳>この頃は一生の芸が定まるはじめである。声もなおり、体つきも定まって安定する。年盛りに向かう芸能が生まれる時期である。このとき、たまたま芸の立ち会い勝負などに勝ったりして、他人も時分も上手だと思いはじめる。しかしこれは本人にとっては仇となる。この時分に咲いた花は、初心の花で、まだ誠の花ではなく、ただ人の心に珍しいというだけである。これをよく覚って、物まねも正確にきちんとできるようにし、達した人に細かく聞いて、稽古にますますはげまなくてはならない。この頃の花を、誠の花と勘違いすれば、誠の花からは遠ざかる。自分が達した者であるなどという慢心を起こさず、自分の位(身の程)をよく心得ていれば、その花は一生消えないが、自分の身の程よりも上の上手だと思うと、本来あった花さえ消えてしまう。心せねばならない。<34、5歳>この頃に、盛りの極め(頂点)がくる。この頃に、條々を極め覚って、堪能になれば、必ず天下に許され、名望を得るが、この時分に、天下の許されもなく、名望もさほどなければどんなに上手であっても、まだ誠の花を極めていないと思わなくてはならない。能が上達するのは、34、5歳までで、40からは下降する。ここでも、なお慎まなくてはならない。この時分は、自分の過ぎて来し方も、これから行く先の手だても見えてくる。。この頃に天下の許されを得なければその後許されを得る事は大変むつかしい。<44、5歳>この頃から、能の方法が大きく変わる。どんな名人でもよき脇のシテを持つのがよい。能は悪くはならないが、身の花も、外見の花も失せる。この頃からは、細かな物まねはせず、大方似合う風体を、やすやすと骨をおらないでやり、脇のシテに花をもたせ、おつきあいのように、少な少な(おおげさでないという意味?)にするのがよい。何としても、外目に花がない。もしこの頃まで消えない花があれば、それこそが誠の花である。脇のシテを心がけて養成しておき、それだけに身を砕いて難のある能をしないように心がける。このように我が身を知る心が、達した人の心である。<50歳>この頃からは「せぬ」という方法より他に方法はない。「麒麟老いてはと馬に劣る」ということもある。しかしながら、誠に達した能者ならば、演じられる曲はなくなってしまって、良い悪いの見所少なくても、花は残る。亡き父(観阿弥)は52の歳の5月19日に死去したが、その月の4日に駿河の国の浅間で能を奉納した。その日の父は、殊に花やかで、見物に来た上下の人々が一同に褒美をくれた。その頃はもう色々な曲を初心に譲って、やりよい所を少な少なな風にしていたけれども、花はいや増して見えた。これは、誠に達した花であるために、枝葉が少なく、老木になるまで、花は散らないで残ったのである。