問い

聴講している人からの質問。
「動物にも、生きるための我欲があると思うが、これはどう考えればよいのか?」
「私はクリスチャンだが、西洋のキリスト教にも我を捨てるという考えはあるように思うが」

どちらも、まともに考えると答えるのは大変だなぁと思った。先生の答えは、今思い出そうとしているが、ちゃんとは思い出せない。1番目の問いに対しては、確かに動物にも生きる欲があるということはあるが、当時の人は動物を見て、雨にぬれても飢えてもそれを受け入れ、死ぬに際しても、それを受け入れ、あがいたりしていないように見えたのではないか。。2番目の問いに対しては、地中海地方など、キリスト教も地方によって色合いが異なるというようなことで、キリスト教をよくは知らない私には結論がつかめなかった。

自分なりにもやってみよう。。西洋科学的に考える。。リチャード•ドーキンスの「利己的な遺伝子」という本を思い出した。そこで述べられていたのは個体が、他の仲間へ利他的な行動をしているように見えることが、実は自分の遺伝子を残す為の有効な戦略だということ、だったかしら。。まるで遺伝子が意志を持っているかのよう。。自我を担っているのは遺伝子?乱暴だけれどこの戦略を持って生きているものが、すべて生き物だと仮定してみると、人間はこの枠組みに入るのだろうか??人間のすべての欲望や行動は、自分の遺伝子を残すという目的のためだろうか??そうとも理屈がつきそうだし、そうでないとも理屈が言えそう。。遺伝子をセントラル•ドグマとした考えは、わかりやすいけれども、遺伝子はそれだけで単独に存在するものではない。それは周囲の環境にひたされ、それと相互作用しあって変化するものだから。。ここで、混沌にぶつかる。では、違う切り口を探そう。

人間と動物の違いはどこで決まるのか?遺伝子で見ると、人とチンパンジーは95%くらい同じと聞いたことがある。。遺伝子で見れば、人間と動物は親戚関係なのだ。。でも、文明をつくり、宇宙にまで行くのが人間。。やはり動物とは違うという感覚をもつ。脳の構造に違いが見られるのか??確かに違いはあるようだ。大脳新皮質の大きさは、他の動物にくらべて大きい。この脳の部分が司る機能は一体何か?ここに人間の我と動物の我を分けるものがあるのではないか。とこういう風にメスを入れてやっていくのが西洋科学の考えかなぁと思う。それに対して、日本的な考えは、自然にメスを入れるというのを好まない。。そこにあるもの、おのずからしかりというものを、あるがままに受け入れ、自然(母?)へ一体化することを求めるのかもしれない。。

キリスト教は、父なる神と人とのつながりで成り立っている。とすると、(カトリックなどのマリア信仰を無視して乱暴かもしれないけれど)、その精神の下では母なるものとの関係を切ること、独立した個として存在することが、求められるのではないだろうか。。西洋の自然科学の基盤にキリスト教があるとよく言われる。自然(母)から自分を切り離しておいて、外から認識というメスを入れ理解していくという科学の精神のおおもとがキリスト教というのはわかる気がする。。だからキリスト教における、隣人を愛せ、友のために命を捨てる事ほど尊いことはない、といった意味で我を捨てるということと、日本的無我とは、かなり違いがあるように感じられる。。どう違うのかは、もっと詳しくキリスト教や日本の思想を知らないとわからないことだけれど。。

私は大学生の頃、日本人が(女性が)科学をするということは、どういうことなのだろう?と思っていた。。先にのべたような、自然にメスを入れるのを好まない精神と、科学はマッチしないように見える。しかしつい先日も、ノーベル物理学賞を南部、小林、益川の3氏がとった。素粒子物理の分野では、これまでに15人のノーベル賞受賞者がいて、その3分の1が日本人ということになる。。これは、一体どういうことなのだろう?科学の分野で、日本人の精神とマッチングするものがあるとすれば、それは何だろう?。。益川さんは、一度も海外へ出たことがない人だ。きっと日本人は科学に対して西洋の人の向かい方と違う向かい方をしていると思うのだ。これだけ対立するものに、単に西洋に同化してそれが非常にうまくいったというだけなら、真に独創的な研究が生まれてくるはずがない。。それは一体何なんだろう?

そんなことを、つらつらと思った。。