祖父の死

「よーいよーいよーい。」(低い、そーどーそーのメロディで)
この声が、私の祖父の最初の記憶です。ねんねこ半纏に私をおぶい、こうもり傘をさして道をゆっくりと歩いてくれた祖父。次の記憶は、ようやく歩きはじめた頃でしょう。本箱に足をつっこんでかぽかぽとごきげんで歩いていた私に、「こら!」と大声で一喝。そのこわかったこと。。

祖父は毎日決まった時間に起き、決まった時間に道を散歩するので「かんとさんだ」(哲学者のカント)と私の母はよく言っていました。雨ふりの日にも、軒下で往復散歩を実行していたのを憶えています。トイレの紙ももう私が大きくなるまで自分は新聞紙を切ったものを使っていたし、鼻紙もそう。ぶふぉーっと大きく鼻を鳴らして新聞紙で鼻をかんでいる姿を思い出します。質素倹約が旨の祖父と、大阪の散髪屋の娘の母は、よく衝突していました。

その祖父が脳溢血に倒れたのは、私が高校3年の冷え込んだ冬の夜でした。家の便所は外に面した板間の端にありましたが、何か唸るような声がするので出てみると、祖父が外へ落ち倒れていました。母は仕事でおらず、父を呼んで祖父を担ぎ上げ、救急車で病院へ。その夜から左半身が動かなくなりました。ベッドの手すりをつかんで起き上がろうとし、それができなかった祖父が落涙したのを私は憶えています。2ヶ月ほど入院して落ち着いたところで、祖父は家にもどってきました。そして、父と母が交代で介護する生活がはじまりました。大きく変わったこと、それは厳めしかった祖父がかわいらしいとてもユニークな人に変身したことでした。「ゴルフ!」と祖父が声をかけると、「はいっ!」とすかさず母が祖父の口へまるいチョコレートを入れる様が漫才のようで可笑しかったのを憶えています。祖父と母はようやく和解したのでしょう。そんな中私は大学に受かり、春になり家を出ました。1ヶ月後、ゴールデンウィークには帰省し祖父の顔を見て、また大学へ戻りました。そして夏休みに入ったある暑い日の朝。寮に電話が入り、「じいちゃんが死んだからすぐ帰ってこい。」と。とるものもとりあえず、家へ戻ると祖父は寝かされた布団の上で動かなくなっていました。枕元でぽとぽと涙をこぼし悲しくはありましたが、祖父の死は今も私の中ではどこか明るくつき抜けたイメージで思い出されます。

倒れる少し前、まるでそれを予期していたかのように、祖父は引きあげて帰ってから借地だった家の土地を買い取り、後をすっきりと始末しました。半身が動かなくなってからは、母が洗髪が大変なので丸坊主に刈るようになりました。すると祖父は若い頃にそうだったように、再びお坊さんになったようでした。父はずいぶん昔、まだ父が子供の頃、祖父が「仏教の神髄は、理趣経だ。」と言ったのを憶えていると話していました。理趣経とは何か。後に勉強してみると、それは人間の欲望は清浄だと説いたものでした。仏教の自らの欲望を滅し悟りに至れという教えとまるで正反対で、これは長い間秘教として人目にふれず伝えられたそうです。今こうして書いてみると、理趣教は「人生(生命)は美しい」と感嘆しているのだと気づかされます。

「おん あぼきゃべ いろしゃの おまかぼ だらまに はんどま じんどま はらばりたや うん」

と病の床で真言を唱えていた祖父。「あ」で生まれ、「うん」で終わるこの人生のひとめぐりを観想していたでしょうか。。

追記:真言宗を知りたくて読んだ本。梅原猛著「空海の思想について」