祖父

私の生まれた愛媛は四国遍路、菩提の道場です。物心ついたときには、祖父から「なむだいしへんじょうこんごう(南無大師遍照金剛)」という唱え文句は、お大師さん、助けてくださいという意味だから、何か助けてほしいと思うときにはつぶやくようにと教わりました。祖父がどんな人生だったのか。わずかに聞いたところを記すと、大正時代農家の長男として生まれ、小さな部落の寺の後をとるという約束で、高野山大学へ行ったそうです。卒業試験の時期に赤痢が流行り、梅干しの汁を飲んで勉強したこと、最もよくでき一番だった同級生は、試験のあと倒れてしまったというエピソードを聞きました。二番の成績で卒業した祖父は、故郷の寺へは戻らず新聞記者となって朝鮮半島へ渡り、その際には、自身の父母や弟一家なども一緒に連れての大移動だったようです。祖父は京城朝鮮日報で編集局長を勤めたと聞いています。そこで生まれた父が、砂かぶりの席での相撲観戦、レストランでの食事のことを話していたので、暮らし向きはよかったのでしょう。しかし次第に戦争の色が濃くなり、やがて第二次世界大戦がはじまります。その前後に妻を結核でなくし、6歳の息子(私の父)も重い膿胸を煩い大きな手術をしなければなりませんでした。やがて祖父は再婚し、3人の女の子が生まれます。次第に戦況は悪化、昭和20年に一族を連れて日本へ引き揚げ船で帰ってきました。戦後の困窮の中、故郷ではどんな暮らしだったのか。おかゆというのはどんぶりの底に米が2、3粒沈んでいるようなもの、とか芋の葉っぱまで食べたという父の話から推し量れます。田舎で祖父は市役所か何かの勤めをしたようですが、定かではありません。最近私が田舎へ帰ると、一家の墓の上にある猫の額ほどの三角形の土地にはびこった竹やツタを刈るのが仕事になっています。本家とは別れて墓を作った祖父。一緒に朝鮮半島へ渡った家族たちが眠っています。そこは巨大な岩の上の石だらけの土地。その上にわずかに乗った土壌にはびこる草の根と闘いながら、ここに家族が食べるための畑を作っていたのだなと静かに思います。

追記:引き揚げについて私に具体的なイメージを持たせてくれ、ぐいぐい惹き付けられるように読んだ本。藤原てい著「流れる星は生きている