あるべきやうわ

今年の正月休みに、たまたま近所のショッピングセンター内の本屋で見つけたのが、雑誌「考える人」の特集「さようなら こんにちは 河合隼雄さん」でした。さようならのあとにこんにちはと来るのが、よいなと思い購入。昨年亡くなった河合隼雄氏へ色々な人が追悼の文章を寄せていました。その雑誌をきっかけに今年は、河合隼雄著「明恵 夢を生きる」をもう一度読むことからはじまりました。

明恵 夢を生きる」を河合氏が執筆するきっかけは、湯川秀樹の主催する研究会の帰りのエレベーターの中で梅原猛が「栂尾の明恵上人が書いた「夢記」というものがあるが、私にはよく理解できない。あなたに解いてもらいたい。」と言ったことだったそうです。このエピソードには、分野を超えた学者間の交流の様子がうかがえ京都らしい自由さを感じました。「明恵 夢を生きる」は鎌倉時代の僧侶、明恵が19歳のときから生涯にわたって自分の夢を書き留めた「夢記」をもとに、ユング派心理学者の著者が明恵が自己の内面の発展をどのように行っていったかを解いたものです。それは一幅の絵を見るような素晴らしさで、これを読むとつい夢を記録してみたくなり、私もまたやってみたのですが3日ともちませんでした。河合氏の言うように、夢を記す意味が、明恵のように自己に欠かせないものとしてはっきりと位置づけられていない限り、無理な話なのでしょう。今回の読書で特に心に残ったのは、明恵が大切にした言葉「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」でした。「我は後生資(たす)からんとは申さず。只現世にて有るべき様にて有らんと申す也」という言葉は、明恵の中に流れる武士の血を感じさせます。この言葉について著者はこう述べています。

明恵が「あるべきように」とせずに「あるべきようは」としていることは、「あるべきように」生きるというのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきような何か」という問いかけを行い、その答えを生きようとする、きわめて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。
戒を守ろうとして戒にこだわりすぎると、その本質が忘れられてしまう。さりとて、本質が大切で戒などは福次的であると思うと、知らぬ間に堕落が生じてくる。これらのパラドックスをよくよく承知の上で、「あるべきようは何か」という厳しい問いかけを、常に己の上に課する生き方を、明恵はよしとしたのであろう。

「人生は美しい」の流れで書き進んできましたが、だからといってどんな有り方も肯定するのは、自分を無自覚に闇に落とすようなもの。。人間は弱い生き物だから、安易に自我(欲)を肯定などすると、簡単にどんな心の闇にもとらわれるようになってしまいます。自我を満足させ利益を得ることが目的の消費社会の中にいる私たちは、自我に心地よいことはよし、とすることに馴染んでしまっているので、よほど注意して「あるべきやうわ」を問わなくてはならなくなっていると感じます。自我は卑小で醜く、限られた時間しか生きられない自分の中にあります。それをじっと見つめたときに、哀しさが感じられ、その哀しさの中に美しさ(自我を超えたもの)が存在するのだと思います。さて、今子供が目の前で友達にもしくはあなたに、「死ね」という言葉を発したとき、あなたはどういう態度をとりますか?その仕方は千差万別でしょう。しかし、それが子供の心にとどく態度なり言葉でなければならないとしたら。あなたは全存在をかけてその態度を選ばなくてはならないことに気づかれると思います。その時に「あるべきようは」と一瞬問いかけるのとそうでないのでは、大きく結果が異なってくると思うのです。

追記:明恵上人について読んだ本。白州正子著「明恵上人」