死と愛

外は雨降り。カラマーゾフの兄弟の次に何を書こうと思ったとき、昨年読んだヴィクトール・フランクルの「死と愛」がふと浮かびました。この著作は、私の力では十分理解できませんでした。たぶんまた機会がめぐってきたら読む本だと思います。

そもそもフランクルを読むきっかけは、柳田邦男の「死の医学への序章」からでした。ちょうど5年前の今の時期、癌で余命1ヶ月、医者に手の打ちようがないと宣告された父が我が家で一緒に暮らしていました。癌の終末期医療のあり方を問おうとする柳田の著作の中に、必死に答えを求めようとした自分を思い出します。その死の医学の中に、「夜と霧」が紹介してありました。強制収容所での体験をもとに書いたこの作品が、どうして癌医療と関係するのか。それは、死を宣告された癌患者と、アウシュビッツに収容された人は、ともに自分の死と厳しく向かい合わなければならない(なかった)という点において心理が共通しているためでした。柳田は、癌と闘い逝った精神科医の西川喜作、彼が深く読んだ「夜と霧」を通して、どんな絶望的な状況でも、死ぬ瞬間まで人は自己実現していくことができると、伝えようとしていました。今はこのように書いていますが、当時の私は父の病勢に動揺し惑うばかりで、冷静に理性的であろうとして心身がついていかず千々バラバラな有様でした。この体験は、最後に父が私へ残してくれた宿題だと思っています。

ふたたび「死と愛」に戻ると、この読書から「人生をどう生きるかは、自分に全責任がある。」ことをはっきり意識するようになりました。誰しも自分にはどうすることもできない壁につきあたると、虚しさに襲われ自分は無力でもう何もできないのだと悲観することがあると思います。そういう時、何かを恨んだりせず、この人生にどう応じるかの自由と責任は自分の側にあるとはっきりと思うことが、次の扉を開けてくれる気がするのです。私が好きなフランクルの言葉は「人生に意味を求めても答えはない。あなたが人生から生きる意味を問われている。」です。自分の立ち位置をこう転換してみると、不思議と余裕が生まれ元気が出てきます。これってユーモアの精神にもつながるのかなと近頃思います。これによって、私はずいぶんと解放され、そして生活の一瞬一瞬が選択の機会に満ち満ちていることにも気づかされました。実際、行動も変化したと思います。それまではブラウン運動する花粉さながら、あっちこっちにぶつかっては向きを変え方向の定まらぬ観がありましたが。このことを実践している人は、すぐ身近に沢山いると感じます。ただ、今の日本の風潮はやたらと外側へ責任や原因を追求し、内側には安易で無責任な態度(私にもその危険はありますが)があるのも確かで、それが一番精神のやわらかい子供に暗く影を落としていると思わずにおわれません。「死と愛」はまずきっぱりと自分の責任を負おう、そして選んでゆけるんだと思わせてくれた本でした。

追記:「死の医学への序章」をきっかけに読んだ本。柳田邦男著「「死の医学」への日記」,「犠牲(サクリファイス)」(柳田の次男の自死を書いた作品),「犠牲への手紙」。ヴィクトール・フランクル著「夜と霧」,キュプラー・ロス著「死ぬ瞬間」,立花隆著 「臨死体験」。