アリョーシャとイワン

昨年、「カラマーゾフの兄弟」の新訳が出て、異例のベストセラーになったそうです。その主な読者層は20代〜30代の女性。その理由はなかなかわからないとラジオの解説者は語っていました。わたしも、昨秋、再び原卓也の古い訳文でですが読んだ一人です。

私の両親は、文学談義がとても好きでした。私が中学の頃だったでしょうか。父と母がカラマーゾフの兄弟で誰がよいかをしゃべっていて、母が「イワンに惹かれる。」、父は「アリョーシャ。」とその日も意見が分かれていました。両親の性格を知る私としては、その違いが今はとてもよくわかりますが、当時はまだ読んでもおらず、こんなに人を熱心にさせる小説があるんだなぁと思っていました。30歳前後の数年で私はようやく二回読んだのですが、一度目と二度目で作中人物に対する印象ががらりと変わってしまいました。これは父の死をはさんだ二度ということがおおきいと思います。一度目の読書では、物事を理づめで考えていくイワンの思想に惹かれ、アリョーシャの印象は薄かったと記憶しています。それは、その数年前(私が理系の大学院生だった頃)にオウム真理教の事件が起こり、宗教を敬遠する気持ちがどこかにあったためでしょう。信仰へ盲目的に救済を求めたりせず、どこまでも現実を冷静に観察し理性で考察していくイワンのような態度こそあるべき姿と私は感じていました。ところが二度目は、父の死を見送った後で、その前に生まれた幼い息子の日々の成長とともに、人が生きることについて見えてくる現実が自分の中で劇的に変化するという体験がありました。すると突然私の前に、ゾシマ長老、街の中学生のイリューシャ、コーリャ、などアリョーシャと深いかかわりをもつ人々の存在が現実そのもののように輝きだしてきたのです。反対にイワンについては、最終的に精神に異常をきたしていくその有様が腹立たしいほどで、とても無惨でした。通勤電車の中でむさぼるように読み、電車をおり仕事場へ向かいながら、これからは意識して(アリョーシャの側を)自分で選びとっていくのだと自分に言い聞かせていたのを思いだします。これからの自分の一つ一つの行動がまさにその選択の実践だと言わぬばかりの心境でした。一度目には、物事の冷静な観察者となり(そこには善悪はありません)、その中で最善の道を探そうという態度を指針に感じたのに対し、二度目には、自分の内に恩寵として善があることを信じ、物事に心ごと入っていく実践的な態度を指針に感じたのは我ながら大きく変わったと思わずにいられません。


追記:大江健三郎著「新しい人の方へ」の「子供のためのカラマーゾフ」という章では、子供たちのために長編カラマーゾフの兄弟を抜粋して読む方法が書かれています。