カムパネルラとジョバンニ

点子ちゃんとアントン」の設定と似ているなとふと夜に浮かんだ物語がありました。。

一人は貧しくお父さんは遠い海の上、お母さんは病気で寝ている。学校が終わると夜活版印刷所で働いている男の子、もう一人はお父さんが博士で本の沢山ある家に住んでいる。

そう!宮沢賢治(1896-1933)「銀河鉄道の夜」です。カムパネルラとジョバンニ。
宮沢賢治 銀河鐵道の夜(こちらは話の順序が普通読んでいるものと違う。初期の形?賢治はずっとこの作品に手を入れていたらしいから。。筋としてはわかりやすい展開になっている。)

宮沢賢治 銀河鉄道の夜(こちらがおなじみのストーリー。以下はこちらで話を進めます。)

設定が似ているけれども、人物の動き方は全く違います。アントンもジョバンニも、心やさしいプライドの高い少年ですが、アントンは、自分より年上の少年をぶっとばしてしまう程、腕っぷしが強い。一方のジョバンニはクラスの少年たちにのけものにされ、からかわれています。

アントンの担任の先生が成績の落ちたことをお母さんに手紙で知らせようとした時、点子ちゃんはリムジンで学校に乗り付けて(2人は違う学校に通っていました)先生に手紙を書かないよう直談判をして成功します。一方ジョバンニの先生は気遣っている様子ではありますが、アントンの先生のように手紙を書いたりお茶に呼ぶという所までは関わってくることはありません。また親友カムパネルラは何も言わず悲しげなだけ。けれども彼は、ザネリが川に落ちたのを救って命を落とすという行為を通して、時間も空間も超えてジョバンニの魂へ直接働きかけてきます。そこから広大な宇宙空間への2人の旅がはじまり、この先は現実の次元が違ってしまうので、2つの物語に接点はなくなりますが、最後の場面ではどちらも、お父さんの登場というのがポイントになっています。

点子ちゃんのお父さんは、強盗を未然に防いだアントンを、点子ちゃんとともに遊園地へ連れて行き、一緒に遊び、妻を叱り、アントンとお母さんを家に住まわせ大団円を演出していきます。一方のカムパネルラのお父さんは、最愛の者が逝ってしまった川辺に立ち、冷静に時計を見て「もう駄目です。落ちてから45分経ちましたから。」と人々に言い、ジョバンニには、「うちに遊びにきてくださいね。」と言うのみ。

アントンと点子ちゃんは、「いつまでも幸せに暮らしました」という昔話の伝統的終わり方のように、その先を想像するのは妥当ではなさそう。(独立心の強いアントンは、気詰まりになりはしないか、などとおばちゃん心で心配するというのはありますが。)一方、ジョバンニとカムパネルラはもう現実には二度と会えないのですが、魂としてあちら側とこちら側で結びついていて、こちら側のジョバンニはこれからどのように生きていくのだろうと思わせます。そしてカムパネルラを失ったお父さんは、そのジョバンニに息子を見、希望を見るのではないか。。などとあれこれ想像してしまう。

一方は、現実世界に重心があり、もう一方は内面世界に重心がある。同時代(ケストナーは賢治の3歳年下)の2人の人生や、ドイツと日本の文化、精神的な風土から比較して見てみるのも面白そうですが、私にはそれを考える知識がないのでこれは保留しておきます。

そんな風に2つの物語を見比べながら、昨夜は面白がっていました。宮沢賢治が東北の農民に思いを寄せ、晩年農業指導に奔走したことを思うと、賢治の中にあった理想郷イーハトーブのイメージ、それがどんなものか調べてみたいなと思いました。あらためて、年譜を見ると、Wikipediaにこんな記述がありました。

1896年、賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。また誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。この地震の際に母は賢治の入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという。
1933年賢治の亡くなる半年前の3月3日に「三陸地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している[6]。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状[2]には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている[7]。

ケストナーの描く世界には、人間の力、父性への信頼感を感じますが、賢治の世界には、人間の力ではどうにもならない自然(宇宙的な広がりを持つ母性)を前に父性はだまって佇むしかないのだと感じます。現在の東北のような状況の中で賢治は生まれ、母親や周囲の動揺、哀しみ苦しみを感じながら幼い頃育ったのかと思うと、また新鮮な目で宮沢賢治を読むことができそうです。