ふらりと立ち寄った本屋で見つけて買う。岡潔も、小林秀雄も、今は亡き父が好きだったからきっと実家にはこの本、あるに違いない。夫に買ったよと報告したら、あ、それイオンで買ったよと。。あら。。2冊。。
- 作者: 小林秀雄,岡潔
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/02/26
- メディア: 文庫
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何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやったほうが幾分利益があればできるものです。もし建設が一つでもできるというのなら認めてよいのですが、建設は何もしていない。しているのは破壊と機械的操作だけなんです。だから、いま考えられているような理論物理があると仮定させるものは破壊であって建設じゃない。破壊だったら、相似的な学説がなにかあればできるのです。建設をやって見せてもらわなければ、論より証拠とは言えないのです。だいたい自然科学でいまできることと言ったら、一口に言えば破壊だけでして、科学が人類の福祉に役立つとよく言いますが、その最も大きな例は、進化論は別にして、たとえば人類の生命を細菌から守るというようなことでしょう。しかしそれも実際には破壊によってその病原菌を死滅させるのであって、建設しているのではない。私が子供のとき、葉緑素はまだつくれないと習ったのですが、多分いまでも葉緑素はつくれない、葉緑素がつくれなければ有機化合物は全然つくれないのです。一番簡単な有機化合物でさえつくれないようでは、建設ができるとは言えない。
いまの機械文明を見ていますと、機械的操作もありますが、それよりいろいろな動力によってすべてが動いている。石炭、石油。これはみなかつて植物が葉緑素によってつくったものですね。それを掘り出して使っている。ウラン鉱は少し違いますけれども、原子力発電などといっても、ウラン鉱がなくなればできない。そしてウラン鉱は、このまま掘り進んだら、すぐになくなってしまいそうなものですね。そういうことで機械文明を支えているのですが、やがて水力発電だけになると、どうしますかな。自動車や汽船を動かすのもむつかしくなります。つまりいまの科学文明などというものは、殆どみな借り物なのですね。自分でつくれるなどというものではない。だから、学説がまちがっていても、多少そういうまじないを唱えることに意味があればできるのです。建設は何もできません。いかに自然科学だって、少しは建設もやってみようとしなければいけませんでしょう。やってみてできないということがわかれば、自然を見る目も変わるでしょう。
こういうことはニュートン力学のあたりに始まるのですが、ニュートンは、地球からいうなら太陽の運動、その次は月の運動、それくらいを説明しようとして、ああいうニュートン力学を考え出し、そこで時間というものをつくって入れたのです。ああいう時間というものだって、実在するかどうかわからないが、ともかく天体を見てああいうことを考えているうちに、地上で電車が走るようになったというふうで、おもしろい気がします。しかしその使い方は破壊だけとはいえなくても、少なくとも建設ではない。機械的操作なのです。
しかし、人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によって初めに人の心というものをもっと科学しなければいけなかった。それはおもしろいことだろうと思います。人類がこのまま滅びないですんだら、ずいぶん弊害が出ましたが、自然科学によって観察し推理するというとは、少し知りました。それを人の心に使って、そこから始めるべきで、自然に対してももっと建設のほうに目を向けるべきだと思います。幸い滅びずにすんだらのことですが、滅びたら、また二十億年繰り返してからそれをやればよいでしょう。現在の人類進化の状態では、ここで滅びずに、この線を越えよと注文するのは無理ではないかと思いますが。しかし自然の進化を見てみますと、やり損ないやり損なっているうちに、何か能力が得られて、そこを越えるというやり方です。まだ何度もやり損なわないとこれが越えられないのなら、そうするのもよいだろうと思います。しかしもしそんなふうなものだとすると、人が進化論などといって考えているものは、ほんの小さなもので、大自然は、もう一まわりスケールが大きいのかもしれませんね。私のそういう空想を打ち消す力はいまの世界では見当たりません。ともかく人類時代というものが始まれば、そのときは腰をすえて、人間とはなにか、自分とはなにか、人の心の一番根底はこれである、だからというところから考え直していくことです。そしてそれはおもしろいことだろうなと思います。