10月の本棚

決して後ろ向きな意味ではなく、「死」と向き合いたいと思っている。死を想う時、虚無や恐怖にたちつくしてしまう自分に変容をもたらしたいと願う。10歳の時、1つ下の女の子が目の前で事故で亡くなってから、いくつもの「死」を通りすぎてきた。その時から一歩も進めないようではいけないではないか。

ちょうど、ダライ ラマが茂木健一郎氏と11月に対談することを夫に教えてもらった日に見つけた一冊の本。これをこの10月に読みはじめる。般若心経で語られる「空」の意味をまた前にする。これまで幾度私はこの空の定義を読んだり、聞いたりしてきただろうか。未だわからない。いかなるものもそれ自身で存在する本体(自性)を持たないこと。独自性の不在が空。すべての事象は絡み合い分ちがたく関連しあっている。なのでそれだけというものを取り出せない。取り出そうとすれば、消えてしまう。それだけと思って人が名付けたものは実体のないものだ。頭では理解できるが、体験として腹の底でわかっていない。ソギャル リンポチェの案内を読みながら、実践(自己実験)をしていこう。。
(1日)

チベットの生と死の書 (講談社+α文庫)

チベットの生と死の書 (講談社+α文庫)

実践とは、瞑想を一日に何分か行うこと。心の表面のざわつきのその奥へ集中させる。山のようになったつもりで、無邪気に仏陀を真似て。。いくつもの自我のペルソナ(仮面)の皮の奥にあるものを見つめ、表面のゆらぎの底に広大な海の広がり、眼前にどこまでも空の広がりのあるのを感じる。でも一番大事なのは、「この瞑想のはじめから終わりまでをすべての生きとし生ける物の幸せと平和のために捧げること。」それが間違った座禅、瞑想にならないための核心に思える。真民さんが「拝まないものも拝まれている。」と言い、毎朝三時に起きて重信川のほとりで祈っていたのと同じことに気づく。瞑想をはじめると、そうした無数の人々の祈りが実は私の所へずっと大きなうねりとして届き続けていたのを感じる。

瞑想はそれだけではいけない。その時だけが切り離されてあるのではない。自分の単なるリフレッシュの為ではない。瞑想の本当の目的は、日々の生活の中へ、その瞑想で得た気づきを溶かし込んでゆく事。自分の行動へ反映させていくこと。