風土

今回の授業は、和辻哲郎の「風土」が宿題でしたが、この授業ではじめて私は読みにくさにぶつかりました。その読みにくさは、文体もあるかと思いますが所々で作者の考えに賛同できない、もしくは作者のもの言いに反発する心理が動くためのようでした。時折、民族の上下のような考えがのぞくこと、自分を高所に置いていることを感じとるというのか。。体調も悪くて頭痛の頭で感じたことではあるのですが。。和辻が思想的に戦争に賛同した側で、戦後は忘れられた存在になっていったと授業で聞いた事と符合もしたのでした。

けれども、つまづく所がいくつかあるにしても、「人間はそこに生きる風土から、自分というものを了解していく」という視点は確かに、今展開している世界の様々なこと、民族間の争いなどを理解していくのに役立ちそうでした。世界を大きく①アジアのモンスーン地域、②砂漠地域、③ヨーロッパの牧草地域に分けて、その自然との関係で人間がどう自己を位置づけ、了解していくのかをその土地の宗教、文化遺産なども含めて考察していくのです。

最近、海外旅行にはまったうちの母が、エジプト・トルコのときは「人の面立ちが全然異ちがって、感情も全然違う気がした。そこにわたしと同じ共感があるのかどうかさえわからなかった。」と言い、カンボジアのときは、「とてもなつかしい気がして、ちょっとこちらがにこっとすれば、向こうもにこっとするという気安さがあった。」と言っていたのを思い出しました。和辻もアジア経由でアラビアを越え、ヨーロッパ留学した戦前、もしかしたら母とそんなに変わらない印象を持ったのかもしれません。

それにしても、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの神は、砂漠の民の部族神がもとであること。。厳しい乾燥の自然の中では、集団の強固な結束なくしては人は生きていかれないこと。。そういう視点を持つと、今まで聖書を読んで愛の神の、人間に対する試練のあまりの厳しさがいつもよく理解できなかったのですが、そうかと納得するものがありました。つまり、その厳しさから、神の下への結束や、危急のときに、集団全体が存続するために自らの命を捧げる個人のあり方というものが生まれてくるのだと。。

一方、アジアのヒンズー教の寺院などの細部への過剰なまでの装飾は、その自然が人間の力など及ばぬほどエネルギーに満ち、はびこり増殖し、豊かであることと対応しているということ。。そのために細部に全体が宿るという精神世界が展開され得たということに、私は20世紀に入って科学がフラクタルやカオスの方向も生み出したこととの対応を思い起こしたのでした。

それに対して、ヨーロッパの牧草地域は自然が適度に乾燥し穏やかで、農耕の労働も、雑草との闘いなどほとんどない。その従順な自然に対し、人間は積極的に手を加えていくことで、人が自然をコントロールし支配していく意識が生まれたことが述べられていました。また、風も強くなく、木々は整えられたようにシンメトリーをなしているとも。そうした環境から得られる美意識は、自然に規則性を見、それが規則を支配する普遍への思考とつながっていったと。

一方、日本のように台風の多い土地の、ねじれふしくれだった木々の環境では、不規則性に自然を見、常に変化し移り変わるものとしての人間の思考を育てる。面白かったのは、日本の変化に富む四季や、突発的に毎年起こる災害(地震、台風)が精神の過敏性をもたらしていることを指摘していることでした。なるほど、過労死の多いのも、その過敏性故かもしれないと。。妙に納得したり。その他にも、哲学を生んだ地中海地域、中国などについての記述が続いていくのです。

「風土」を読みながら、その過敏性は別として日本の風土からくる細やかであいまいな精神(理詰めよりも、腑に落ちることを尊ぶ)などは、西洋の合理的精神に簡単に駆逐される。。という思いがしました。それと同時に浮かんだのは西洋タンポポや、アメリカザリガニの強い繁殖力でした。日本にもともとあったタンポポ(関東たんぽぽ)は、茎も細く、年1回綿毛を飛ばし、可憐な印象なのに対し、西洋タンポポは茎太く、色濃く、年2回綿毛をとばし、年々増えているのです。。タンポポ調査をやったことがあるのですが、雑種も生まれていて区別つかないものもかなりの割合でありました。。もしかしたら、こうした危機意識は、明治の人たちがもっと強く持っていたのかもしれません。今はかなりの部分、西洋化しているために、その危機感からは解放されつつあるのかもしれませんが、和辻が最後にふれていたように、どんなに西洋化しようと、家に靴をぬいであがる限り、深いところでの精神構造は今も変わってないだろうという気が私にはするのです。

宮崎駿崖の上のポニョを、神経症の時代に送るメッセージとして作ったとして言っていたけれど、私の独断が許されるなら、日本人は自分を守る戦略として、その過敏症気質をフルに使い、弱々しく映るあいまいな精神は捨てようとし、強そうな合理主義を無理無理すげていったのではないか。。けれどもしかしたらそのあいまいさこそ、私たちの精神の過敏のバランスを微妙に柔らかく包んで支えるものであって、それを捨てればただの、神経症に陥るしかないのではないか。そんなことをつらつらと思ったりしたのでした。。