エミリー•ウングワレー展

友人と、エミリー•ウングワレー展を見に行ってきました。エミリーはオーストラリアのアボリジニーの女性です。先住民族として支配されながら、伝統的なアボリジニーの儀式を守り、故郷の大地を深く愛して生きた人です。78歳ではじめて絵筆を持ち、それから亡くなるまでの8年の間に3000点を越える作品を描きました。。

ドットの作品にまず惹かれました。ドットが無数に打たれた空間には奥行きが感じられどこまでもその中へ吸い込まれていきそうでした。1粒1粒は、抽象ではなくヤムイモの種。その粒に凝縮されている生命エネルギーもさることながら、もしも、私がそこを通り抜けていったなら、粒に濾過されて様々な不純物が取り除かれ、純粋な水滴となって出てくることができる、そんな気がしました。会場を進むうちにドットは更に更に細かくなっていき、もうこれ以上はないという位になったとき、ぱっと、今度は色彩の広がる全く違う画境へ移っていました。そのくったくのなさ、自由さに、ははは!と思わず気持ちよく笑いたくなりました。彼女の引く線にも惹き付けられました。かすれたところ、濃いところをたどると、強、弱、強。。弱、強、弱。。ひとつひとつをたどると彼女の息づかいが聞こえそう。後でビデオで見て納得したのは、彼女は絵を描くときに故郷の唄を唄っていたのでした。線は歌、物語、リズム。。そしてもとは、儀式の際に女性の体にペインティングされていた線でもあったのです。こういう線を見ると、子どもはきっと面白い反応を示すだろうなぁ。。子どもに近しい世界だもの。。

更に進むとクモの巣のように絡み合った線の作品があり、ここでは何かが絡みとられていくような感じを受けました。女性である私の中にある複雑さを内包したどうにもならない感覚、この肉体から離れられない業のようなもの、苦痛のようなものと共鳴するのに気づきました。そしてそれらをまた癒そうという働きがこの絵にあるように感じられました。線を目でたどる行為によって、エミリーの描く動作と一体となり、自分の中のものが鎮められていくように感じたのです。「これを男性はどのようにとらえるだろう?」と思わず隣にいた友人に尋ねると、「後輩は、ほとんどはわからなかったけれど、2、3の作品の前で涙がでたと言っていたよ。」と答えてくれました。。

彼女が亡くなる2週間前に描いた作品群は、もう点も線も消失して美しい色合いがあるだけ。。ゆったりと溶け合うよう。「素晴らしい開放」。。彼女の故郷、故郷と一体となった彼女がそこにありました。見事としか言いようのない最後です。。素晴らしい人がいて、その人と絵を通して出会えた。最後の絵の前で手を合わせている女性が居たのが印象に残りました。

見終わってお茶をしながら、ふと「わたしのトーテムは一体何なのだろう?と思います。」と話すと友人は「これから探していけばいいのではない?」と。。そう。。もう少しでわかりそうなんだけれど。。これから探していけばいいんだ。。そんな風に思いました。