デタッチメントとコミットメント

GWに読むはずだった「学校をつくりつづける」を電車の中の本として読んでいる。昨日は、本の中間部、卒業生のカメラマンが2年間、高2〜高3の4組というクラスを追って行くという内容を読み終わった。その前の部分では、自由の森学園が問おうとしているもの、いわば理念が語られていたけれど、ここでは、現実、が語られていた。。外からの規制の一切ない中での高校生の実体。。授業に来ない、来ても漫画の世界に入って外の他人と関わって来ない男子。。がんばってコミットしようとして苛立つ女子。。そして、これでいいのか?ここは単なるモラトリアムの場か?と疑問を持ちながら観察するカメラマン、とてもリアルだった。

これはデタッチメントとコミットメントの問題だと読みながら思った。それは、「村上春樹河合隼雄に会いにいく」でもふれられていたことだけれど。たぶん、カメラマンその人は、私と同じか少し上の世代かなと思う。自分のときの学生はもっと互いにコミットしようとしていたと彼は言う。。議論があったと。それは時代背景もあるのかもしれない。私の中学、高校は校内暴力があった。生徒が何かを主張するという雰囲気があった。それはまだ、何かにコミットしようとする姿であった。でも、その後どんな風にそうなったのかはわからないけど、デタッチメントが社会のありとあらゆる場所で進んだ。ある場所では、自己責任という言葉になったり、ある場所では、他人への無関心や事なかれになったり、自分探しになったり。。自由の森学園とは、この世界の何に自分はコミットしていくのか?どうやって自分と異なる他者とコミットしていくのか?それを中学高校の段階で、自分に問うていく学校なんだなと思った。

ある人は、コミット以前に、自分の内を回復させないと無理で、自分の中の安心できる場所で閉じていたりする。またある人は、目の前に広がる選択肢の前でとまどっている。。心配、不安が先に立って何かにつっこんでいく勇気がない。最近、そういう子が多くなっているというのは、この社会の生み出したものという気がする。

でも、最後に、カメラマンが撮った卒業時のクラス一人一人の顔は、確かに、安定した、何かある、信頼できる人間の顔であった。

実は、この本を紹介してくれた職場の方の息子さんも、「自由の森学園」の生徒さんだ。高校生になってから、学童にもバイトに来てくれるようになった。はじめの印象は、子供たちとの関わりも、何となくおよび腰で、子供のほうに主導権を渡してふりまわされ気味な所もあったのがこの3年生になった春休みは、驚いた。なんだか急に、うまく言葉で説明できないけど、何でも受けられる、大丈夫という信頼できる感じになったのだ。子供に主導権を渡してはいても、「映画づくりごっこ」で芝居っけたっぷりに悪者を演じていつの間にか子供達の場を動かしていた。彼は何かをつかんでいた。。それがこの学校の答えなのだろう。