まともバカ

養老孟司バカの壁」「死の壁」を、流行っていた頃に読みました。。内容はすっかり忘れました。。今度は「まともバカ」というのが、本屋で目にとまって、読みはじめました。私はまともバカ?かも??というのがきっかけ。2月の一冊目です。

まともバカ―目は脳の出店 (だいわ文庫)

まともバカ―目は脳の出店 (だいわ文庫)

読み終わって、「まともバカ」というタイトルの意味を考えてみた。。それはこういうことなんじゃないかと思った。本当は、まとももバカも、ありはしない。まともとバカの境界をつくっているのは、人間の脳。。区別を作りだすのは、共通認識を生み出すため。人間社会は、互いが同じ認識を持っているほうが、スムーズにいくから。それがいいとか悪いとかではなく。。養老孟司は、この本の中で、区別というものが生き物の実態の中でどんなにあいまいかに触れていた。雌雄という区別も、個々には何%かは様々な中間的なものも生まれてくる。障害にしてもそう。。奇形の障害を、日本でほとんど目にしないのは、社会的なかなり強い抑制が働いているということを、日本に住んでいると疑問に思わない。。

「クジラの正義」の話が印象に残った。クジラは遠浅の海に迷い込んで、浅瀬に乗り上げ集団で死んでしまうことがある。クジラは低周波の音を出してその跳ね返りで、障害物を感知する。遠浅の海ではどこまでも出した低周波が跳ね返ってこないので、戻れなくなるほどの浅瀬まで行ってしまうというわけらしい。従って、クジラにとって、遠浅の海というのは、感知されないものだから、存在しない。存在しないもので、死んでもよし。。とクジラはしているわけだから、これは「クジラの正義」なのだということだったように思う。こういう話を読んでいると、色即是空という言葉が浮かんでくる。感知ということによって、それが存在する。感知がなければそれもない。その論理を飛躍させて、感知してあると思う世界は、結局実体などないものだということかな?

また、都市は人間の脳が外に表現されたものだ。。という論も面白かった。それは自然とは違う。私は昨年、授業で、日本人の思想の中の、自然(じねん)、について学んだことを思いだしたりした。頭が望むのは、自分の思い通りになる、便利な世界だ。自然は、自分の身体でもあるが、意識的に頭でコントロールすることはできない。生老病死がそれだ。それをあたかもコントロール可能であるかのように錯覚し、見ないようにしている現代人の都市生活についても触れられていた。。この先、頭のほうは、自分の思い通りになるネットの仮想空間で満足させ、身体のほうは、田舎ぐらしでもして不自由するのが、バランスがとれるんじゃないかという提案は、すごくよく理解できた。でも、そんなに私はすぱっと割り切れないから、別の道を探りたいと思った。