土を喰う日々ー4月の章ー

四月の章は、映画に出てくるところが沢山あった。

(1回観ただけなので、確かではない)

 

四月の章

*土の声がする祭典

あけびのつる、たらの芽、わらび、こごめ、水芹、よもぎ、アカシアの花、みょうがだけ、里芋のくき、山うど、あけびのつる

 

収穫したものを台所へはこんで、土をよく落し、水あらいしていると、個性のある草芽のあたたかさがわかっていじらしい気持がする。ひとにぎりのよもぎの葉に、芹の葉に、涙がこぼれてくるのである。 p.68

 

*水芹をつむ

水はまだ切れるように冷たくて、ゴム長を通して、足の肌に痛くつたわってくる。じゃぼじゃぼと音をたてて、さがしてゆくのだが、とつぜん水草わきに、芹の海をみて、感動する。去年と同じ場所で、ぼくを待っていてくれたのだった。p.68

 

*たらの芽をぬれ紙に包んで焼く

勉が親しい大工さんに、たらの芽をぬれ紙に包んだものを焚き火で焼いて勧めるシーンが映画にあった。エッセイでは、今住む家(信州)の普請に来た大工さんがこれをやっていたとある。

 

*味噌と塩とめし、それだけだった父の弁当

ひるどきになると父は、大工仕事の手を止め、山へ入ってキノコや木の葉をとり、焚き火で焼いておかずに食べていた。

 

だが、子供のぼくは、そういうものを火に焼いて喰う父を、どうかしていると思う気持がつよく、なぜか、貧乏人のくせに、はずかしいことのように思ったのを偽れない。他の大工たちが、鮭だの、鰯だの、金のかかる菜を入れてきているのに、父だけが、うどに味噌をつけたり、木の芽をむしって喰うすがたを哀れに思った。p.77

 

道元禅師「典座教訓」ー菜っぱも醍醐味なのだー

 供養の物色(もつしき)を調辦(ちょうべん)するの術は、物の細を論ぜず、物の麤(そ)を論ぜず、深く真実心、敬重心(きょうじゅうしん)を生ずるを詮要と為す。見ずや、漿水(しょうすい)の一鉢(いっぱつ)も也(ま)た十号に供(くう)じて自(おのづか)ら老婆生前の妙功徳(くどく)を得、菴羅(あんら)の半果も也た一寺に捨(しゃ)して能く育王最後の大善根を萌(きざ)す。記莂(きべつ)を授かり、大果実(だいか)を感ぜり。仏の縁と雖も、多虗(たこ)は少実に如かず。是れ人の行なり。

 所謂、醍醐味を調ふるも未だ必ずしも上と為さず、莆菜羹(ふさいこう)を調ふるも未だ必ずしも下と為さず。莆菜を捧げ莆菜を択ぶの時、真心、誠心(じょうしん)、清浄心にして醍醐味に准ずべし。所以(ゆえ)何(いか)んとなれば、仏法清浄(じょうじょう)の大海衆に朝宗(ちょうそう)するの時は、醍醐味を見ず、莆菜味を存せず、唯一大海味のみ。況(いは)んや腹(ま)た道芽(どうげ)を長じ聖胎(しょうたい)を養ふの事は、醍醐と莆菜と、一如にして二如無きをや。「比丘の口竈(かまど)の如し」の先言有り、知らずんばあるべからず。想ふべし、莆菜能く聖胎を養ひ、能く道芽を長ずることを。賤(せん)と為すべからず、軽(きょう)と為すべから図。人天(にんでん)の道師は莆菜の化益(けやく)を為すべきものなり。

 

 人に供養する食べものを調理し、支度する心がまえは、品物が上等だとか、粗末だとかいうことを問題にするな、と道元禅師はいうのである。一鉢の米のとぎ汁も、まことの心をもって釈尊に供養した老婆は、生きているうちに如来さまから、福徳円満の道を生きれる功徳を得た。アショカ王は臨終の時、手に半個のマンゴーしかもたなかったが、まごころをこめて寺へ喜捨したため、最期の大善根を得る機となった。貧しいものでも、小さいものでも、まごころがあれば、大きな、ゆたかな喰いものになる。これが人の行だ。

 世間でよくいう醍醐味なるぜいたくな料理をやっても、必ずしもそれが上等のことではないだろう。まずしい菜っぱを料理しても、またつまらぬことでもないだろう。そまつな野菜をとりあげて、えらびわける時、真実心、誠心、清い心をもって、醍醐味をつくると同じ気持でやらねばならぬ。なぜかといえば、仏法の清浄な大海でもある寺にくらす大衆はみな清浄だからである。大衆は、供養をうける時は、醍醐味だとか、粗菜だとかいう差別はせず、ただ三宝供養の一大海味となる。道心の芽をそだて、仏となる種子を養う上には、醍醐も粗菜も同じで二つではない。「比丘の口はかまどのようだ。何でも喰っちまう」という古人のことばはこれをいう。ただの菜っぱを賤しいと考え、軽いとみることはいけない。人間界、天上界の導師である人は、粗菜をもって人を教化し、利益をあたえるのである。 p.79-80

 

*調理は全生活のかかる一大事

一日に三回あるいは二回はどうしても喰わねばならぬ厄介なぼくらのこの行事、つまり喰うことについての調理の時間は、じつはその人の全生活がかかっている一大事だと(道元さんに)いわれている気がするのである。(中略)

道元禅師のいう大事は、己れがつくる時だけに生じるもので、そこのところが、ぼくの心をいま打つのである。p.83-84

 

*地との握手

「典座教訓」をよんでいると、ぼくらの父や、母がやっていた喰いものにおける地との握手は、みな禅師の言にしたがっていた気がして、貧農の村にあふれていた人々の働きながらの知恵というものは、じつはこの千年のベストセラーどおりだったとわかるのである。p.85

 

今日、人工化されたスーパーで、食べ物を調達する私たちには、こんな風に土を味わうことは困難な気がする。それでも、と続く。

 

「一所不住」=1ヶ所に定住しない。どこにいても極楽を見出す。

「随所作主」=どこでも主人になれる。

 

つくるものの心(精神)一つで、どこにいても、土を味わうことができる。

 

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原始仏教では「食べる」ことについてどのように言っているだろうか?

と今、読んでいる"ダンマバダ"から探してみた。

その頃の僧は托鉢で食べ物を得ていたから、調理する観点は後世のものになるだろう。

欲望対象としての食物からの忌避、がより強い気がした。

その食べ物が何かははっきり知った上で、良し悪し、多い少ないなど問題にせず等しく尊重する態度は同じ。

 

中村元

ブッダの真理のことば(ダンマバダ)・感興のことば(ウダーナヴァルガ)』

財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り*、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの行く路(=足跡)は知り難い。ー空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

[第七章 真人 92]

訳註)

本性を知り* 

(1)乳粥などについてそれが乳粥であるということなどを知ること

(2)食物が好ましいものではないことを想うて食物を超越すること

(3)具体的な食物を食べる時には、それに対する欲望を除き去ること

以上の三つのことを熟知するのである。(ブッダゴーサ註解)

 

大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

[第二三章 象 325]

 

(托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。

たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称賛する。

[第二五章 修行僧 365,366]

 

道元禅師(1200-1253)と同時代に生き、『夢記』で知られる華厳宗の僧、明恵上人(1173-1232)と食物の関わり方は、原始仏教のあり方に近いのが見てとれる。

 

智山學報第68-006小宮 俊海『明恵と食物ー霊供作法を基調として』(2019)

www.jstage.jst.go.jp

(三)一 明恵と食物 より

秋田城介入道覚智、遁世して栂尾に栖みける比、自ら庭の薺を摘みて味噌水と云ふ物を結構して上人にまゐらせ たりしに、一口含み給ひて、暫し左右を顧みて、傍に遣戸の縁に積りたるほこりを取り入れて食し給ひけり。大蓮房座席に候ひけるが、不審げにつく と守り奉りければ、「余りに気味の能く候程に」とぞ仰せられける。平生、 都て美食を好み給ふ事、更に無かりき。炭おこし焼火などしてしと と当り給ふ事なし。御入滅の年ぞ、病気に より人の勧め申しける間、始めてすびつ・塗りたれと云ふ物を作られける 。

 

このように、弟子である大蓮房覚智(〜一二四八)(以下、覚智)が明恵に野草を摘んで味噌汁を作り、供養したと ころ引き戸の溝に溜まる埃を入れて食していた。これについて驚いた覚智がその理由を尋ねると、あまりに美味と感じ てしまったことを恥じ、故意に味を損なわせていたという。そして生涯、示寂直前まで囲炉裏で温まるようなことはなかったとされる。また、同じく食物に関して、先の味噌汁の記述に続き、

 

上人松茸を食し給ふ由を聞き伝へて、或る人請じ申して、松茸を種々に料理してまゐらせられけり。帰り給ひて後、人申しけるは、松茸御愛物にて候由承り伝へて、随分奔走しける由申しければ、「道人は仏法をだにも好むと 人に云はるゝは恥なり。まして松茸好むなどと云はるゝ事浅猿き事也。是を食すればこそかゝる煩ひにも及び候へ」とて、其の後はふつと是を断ち給へり 。

 

というように、明恵の好物が松茸だと聞いたある人が各所から松茸を集め、様々に料理して明恵に持ってきた。それ を知った明恵は他に自身の好みを知れたことに大変恥じて、それ以降、松茸を食することはなかったという。このよう に精進潔斉、質素倹約はおろか、自身の好みや主観さえも徹底的に否定する態度を、食物を通して抱いていたことがわ かる。そして、それら世間的な欲求、欲望はまさしく煩悩の象徴として位置づけられていたと考えられる。

 

又飲食に飽く事罪業深き事也。凡そ世間に欲を発し、所知・庄園をほしがり、見苦しき利養に耽り、刃傷殺害に 及び、或るは嶮しき道を凌ぐ時は、牛馬の背に疵を生じ、或るは荒き浪を渡る時、船人風に肝に消し、農夫汗を流 し、織女手を費し、鋤虫を殺し、引板獣を驚かし、すべて春耕すより秋収むるに至まで、農夫の艱苦勝て計ふべか らず。然るに殺盗婬酒などの如くならば、留めてもあらましけれども、生を受くる者一日も食せずんば命保ちがた し。去れば仏一食をすゝめ、再食を誡め給へり。是併ら気をつきて道を行はん為也。然るを無慙無愧にして、放逸 の心の引くに任せて、頻にこき味を好み、強ひて飽かん事を願ふ。此の心を改悔せずは、何ぞ畜生に異ならん。然 る間、上人更に飲酒を断ち、又中を過ぎて食し給ふ事なし。然るに老年に及びて不食の所労難治の間、時々少しき山薬などを時以後に食し給ふ事有りき 。

 

ここにあるように、世間的な名聞・利養を否定し、食事に対しても生命を維持するために必要最低限に止め、午前中 の一日一食であったようである。また、示寂直前になってやっと薬草を摂るようになったとされる。

※上記の部分は岩波文庫、久保田淳 山口明穂 校註 『明恵上人集』では、巻下冒頭p.161にある。