土を喰う日々ー3月の章ー

ひき続き、エッセイ『土を喰う日々』から心に留まった箇所を。

この三月の章は、映画にあまりなかった気がするけれど、背後を知るのに大切なことが書いてあった。

 

三月の章

畑はまだ凍っている。何もない時期。

客は千様だ。しかし、だいたいの事情はおしはかってわかり、その嗜好を考えて材料にあたれというのが、精進の第一歩であろうか。p.48

 

*うちにあるもので間に合わす

・乾物を使う 高野豆腐、湯葉、ひじき、うずら豆、おたふく豆。

・青い菜をまぶし、青を膳に目立たせる 春菊、なずな、はこべ。

 

妙心寺前管長梶浦逸外(かじうらいつがい)師の著書、材料の工夫

「たけのこにあえば、たけのこになりきり、松茸にあえば、松茸になりきり、にんじんにあえば、にんじんになりきり、カブラにあえばカブラになりきって、その持ち味を知るとともに、単味では料理にならないから、お互いの持ち味を出しあって、それらが融合して完全な味を出さねばならぬことに気がついた」

「それで品をだき合わせたり、あえてみたり、くずしてみたり、固めてみたり、すりつぶしてみたり、油で揚げてみたり、煮てみたり、焼いてみたり、酢を入れたり、醤油を入れたり、砂糖を入れたり、塩を入れたり、あたかも化学の実験でもやるみたいに、いろいろ配合を工夫した。おかげで、いろいろのご馳走が出来あがって、そのうち自然と味の相性がわかった。」p.58

・工夫の実践 すったじゃがいものサラダ料理

 

*道玄禅師「典座教訓」ー椎茸を買いにきた育王山典座の老僧との問答ー

山僧云く、「寺裏(じり)何ぞ同事の者の斎粥(さいしゅく)を理会する無(なか)らんや。典座一位不在なりとも、なんの欠闕(けつけつ)か有らん」

座(ぞ)云く、「吾れ老年にして此の職を掌(つかさど)る、乃ち耄及(もうぎゅう)の辦道(べんどう)なり。何を以てか佗(た)に譲るべけんや。又来る時未だ一夜宿の暇(か)を請(こ)はず」

山僧又典座に問ふ、「座尊年(ぞそんねん)何ぞ坐禅辦道し、古人の話頭(わとう)を看せずして、煩はしく典座に充てて只管に作務す、甚(なん)の好事か有る」

座、大笑して云く、「外国の好人未だ辦道を了得せず、未だ文字を知得せざること在り」

山僧他の恁地(いんち)の話をき、忽然(こつねん)として発慚驚心(ほつざんきょうしん)して、便(すなは)ち他に問ふ、「如何にあらんか是れ文字、如何にあらんかこれ辦道」と。

座云く、「若し問処(もんじょ)を蹉過(さか)せずんば、豈(あに)其の人に非ざらんや」「若し未だ了得せずんば、他時後日育王山に到れ。一番文字の道理を商量し去ること在らん」と。

 

「お寺には、同じつとめの者が多数いるでしょうに。どうしてかわりの者をよこさなかったのですか」

典座はこたえた。「わたしはこの年になってこの職場にあります。これこそ老いての修行の場という者です。どうして、他の者にゆずれましょう。またこっちへ出かける時に、一晩の泊るひまさえもらってきませんでした」

「あなたほどのお年で、何で座禅弁道したり、考案のことをお考えになったりしないのですか。煩雑なことはみなおやめになったらよろしいのに。台所しごとなどに、おもしろいことがあるんですか」

典座は大笑いしていった。「あなたは外国人だから、弁道の何たるかをご存じない。文字が何たるかもわかっておいででない」

「文字とはいかなるものですか、弁道とはいかなるものですか」

「いまあなたが、うかつに通りすぎたところをうかつに通りすぎなければ、文字を知り、弁道を知るということです。もしまだ呑みこめなかったら、いつか育王山にいらっしゃい。一つ文字の道理をゆっくりはなしましょう」p.63-64

 

ぼくは、三十四里も歩いて、椎茸を買いにきたこの僧の、台所人になりきった境地を思うのである。台所人になって、料理三昧になりきったら、そこに文字もひらけ、修行もひらける道があるというのである。とすると、何もない台所で、客の心をそんたくし、そこにあるわずかな材料を、すりつぶし、煮、酢にあえて工夫のさらに盛る行為は、大学で学ぶ哲学の庭に似ていないか。弁道も、文字もそこにある。p.65

 

しかし。。とこの後続くのが重要で

 

「(料理は)ただ、黙って無心につくれば、よろしい」

「食事は喰うものであって、理屈や智識の場ではない」

 

となる。

***

別の本3冊から、この章の内容に結びつくと思った箇所を思いつくままに。

 

佐藤初女『おむすびの祈り』

最近は、料理の本や料理番組を見て、材料が一つでも欠けていればつくれない、全部分量どおりでないとつくれないと思う人が増えているように思います。私は、料理とは、まず素材を見て、どのようにつくればその素材のいのちが生かされるかを考えていく、創作の営みだと思っています。ですから、材料がなければ別の素材で工夫してつくればよいわけですし、同じ材料、同じ方法で料理をしても、できあがったものには、その人の個性がはっきりと表れます。それが、その人だけが持つ「持ち味」です。p.53-54

 

西岡常一『木のいのち木のこころ』<天・地・人>

弟子も初めは何にもわかりません。そのほうがよろしい。何にも知らんということを自分でわからなならん。本を読んで予備知識を持って、こんなもんやと思ってもろても、そうはいかんのです。頭に記憶はあっても、何にもしてこなかったその子の手には何の記憶もありませんのや。(中略)

考えてやってみる。これを何度も繰り返し、手に記憶させていくんです。頭で考えたことをやってみて手に移すんです。なかなか手と頭はつながらんのです。そのうちに、何となくわかって、できるようになる。p.76

 

身体の一瞬一瞬の動きに気づいていることは、瞑想とつながる。

単に座って行をすることだけが瞑想でない。

 

ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』  5章わが家へ帰るー瞑想

あるとき1人の老婆がブッダの所にやってきて、どのように瞑想すればよいかと訊ねた。ブッダは言った。井戸から水を汲み上げるときの一瞬一瞬の自分の両手の動きに目覚めていなさい。そうすれば、その油断のない、しっかりした落ち着きのなかで、まさにその状態が瞑想であることに気づくでしょう、と。p.130

 

わたしの好きな禅の物語のなかで、弟子は師にこう訊ねる。

「師よ、師はどのようにして悟りを行為のなかに持ち込んでおられるのですか。日々の生活のなかで、どのようにしてそれを実践しておられるのですか」

「食うこと、眠ることによってだよ」

「ですが師よ、誰だって眠るし、誰たって食うのではないですか」

「いいや。誰もが食うときに食っているわけではないし、誰もが眠るときに眠っているわけではない」

「食うときに食い、眠るときに眠る」という有名な禅の言葉はここから生まれた。

食うときに食い、眠るときに眠るというのは、すべての行為のなかに完璧にあなたがいるということ、そこにいることを自我(エゴ)の散漫さに妨げられないということを意味している。これが統合である。そして、あなたが本当にこの状態にいることを望むのなら、なすべきは行である。p.161