土を喰う日々ー1月の章、2月の章ー

映画『土を喰らう十二カ月』を見てから、原作のエッセイ(水上勉著「土を喰う日々」)を手にとった。パラパラ見ると、水上さんが料理をしている写真もある。挿絵は水上さんが描かれたそうだ。「1月の章」から始まり「12月の章」まで。新年に読むのによい。

 

映画に出てきたなぁと思うもの、心に留まるものを、少しずつエッセイから書き抜いてみる。

 

1月の章

旬を喰うこととはつまり土を喰うことだろう。p.12

*くわいをもち焼き網で焼く

ついさっきまで土の中にいたから、ぷーんとくわい独特のにがみのある匂いが、ぷしゅっと筋が入った亀裂から、湯気とともにただようまで、気ながに焼くのだ。この場合、あんまり、ころころところがしたりしてはならない。p.14

*小芋の皮むき

三斗樽ぐらいの大きさの容器に土のついたままのを入れ、水をいっぱいにし、棒の先に、横板を適当の長さに打ちつけたのをつっこんで、樽のへりに両足をのせて跨ぎ、棒をぐるぐるまわすのだ。(中略)20分もやっていると皮は水面にういて、芋は美しい肌をまるく輝かせはじめる。p.15

道元禅師「典座教訓」

米を淘(え)り菜等を調ふるに、自ら手づから親しく見、精勤誠心(しょうごんじょうしん)にして作(な)せ。一念も疎怠(そたい)緩慢にして、一事をば管看し、一事をば管看せざるべからず。功徳海中一滴も也(ま)た譲ること莫れ、善根山上一時塵(じん)も亦(また)積むべき歟(か)。

 

米を洗ったり、菜などをととのえたりする時、典座は直接、自分の手でやらなければならぬ。その材料を親しく見つめ、こまかいところまでゆきとどいた心であつかわねばならぬ。一瞬とてなまけてはいけない。一つは見ていたが一つは見のがしていたということがあってはならない。功徳を積むことにかけては大海の一滴ともいうべき小さなことでも、人まかせにしてはいけない。善根を積むことも、高い山の一個のチリほどのようなことでもなおざりにしないことだ。大海も滴の集まり、高い山も塵のあつまりではないか。p.16

 

2月の章

*手づくりの山椒の木のすりこぎ、山椒

映画では義母の葬儀の通夜振る舞いにゴマ豆腐が作られる。ゴマをする時、すりこぎが登場する。エッセイには山椒の木からすりこぎを作ったとある。映画は義母と亡き妻が「山椒好き」という設定。勉が義母の小屋を訪ねて、ご飯をよばれる際、壺の山椒は食べさせてもらえない。

祖母の喰い方は一風変っていて、ぬく飯の上へその山椒の汁をたらすのだった。祖母はそれを手にしたりせず、箸の中ほどまでを壺へつっこんで、付着してくる汁といくらかの実をぬく飯になすりつけて喰った。かなりな壺のそれは朝昼晩喰っても、一人ぐらしの祖母には手に余る量だった。祖母はしかし、これを大事にしていて、孫のぼくらにくれなかった。p.28

道元禅師「典座教訓」

凡(およ)そ物式(もつしき)を調辨(ちょうべん)するに、凡眼を以て観ること莫(なか)れ、凡情を以て念ふこと莫れ。一茎草(きょうそう)を拈(ねん)じて宝王刹(ほうおうせつ)を建て、一微塵に入って大法輪を転ぜよ。所謂(いはゆる)縦(たと)ひ莆菜羹(ふさいこう)を作るの時も、嫌悪軽忽の心を生ずべからず。既に耽着(たんじゃく)無し、何ぞ悪意(おい)有らん。然れば則(すなは)ち麤(そ)に向ふと雖(いへど)も全く怠慢無く、細に逢ふと雖(いへど)弥(いよいよ)精進有るべし。切に物に逐(お)うて心を変ずること莫れ。物を逐(お)うて心を変じ、人に順(したが)つて詞(ことば)を改むるは、是れ道人に非ざるなり。

 

すべて品物を調理し支度するにあたって、凡庸人の眼で眺めていてはならない。凡庸人の心で考えてはならない。一本の草をとりあげて一大寺院を建立し、一微塵のようなものの中にも立ち入って仏の大説法をせにゃならぬ。たとえ、粗末な菜っぱ汁をつくる時だって、いやがったり、粗末にしたりしちゃならぬ。たとえ、牛乳入りの上等の料理をつくる時に、大喜びなどしてはならない。そんなことではずんだりする心を押えるべきである。何ものにも、執着していてはならぬ。どうして、一体粗末なものをいやがる法が有るのか。粗末なものでもなまけることなく、上等になるように努力すればいいではないか。ゆめゆめ品物のよしわるしにとらわれて心をうごかしてはならぬ。物によって心をかえ、人によってことばを改めるのは、道心ある者のすることではない p.36

 

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宗教と食事。両者は密接に結びついている。『おむすびの祈り』の佐藤初女さんも、山椒の木すりこぎを大切に使っておられた。

すっている間はずっと、家族やお客様など、食べてもらう人のことを思っています。あの人はこの和え物が好きだなとか、小学生の孫はおいしいって言ってくれるかしらなどと、ひとりひとりのことを考えながら丹念にすります。

このような心が、すりこぎの木が持っているいのちをとおして、素材にも伝わるのでしょうか。今でしたら、ミキサーやカッターを使う方が早いのでしょうが。やはりゴマもクルミも、すりこぎでする方がずっとおいしいと思います。『おむすびの祈り』より P.56

初女さんの登場する地球交響曲第2番

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*あまりに辛い大根

出来のわるい大根を、わらう資格はぼくらにはない。尊重して生かせば、食膳の隅で、ぴかりと光る役割がある。それをひき出すのが料理というものか。p.40

読者は禅宗の精進料理なるものは、はなはだケチなもので、きたならしいものだと思われるだろう。それも自由である。道元禅師ふうにやれば、大根一本の中で捨てるところは何もないのだから、それはそのとおりである。しかし、すぐれた典座によってどのようなところにそれがつかわれているかによって、料理はきまるのかもしれない。すなわち工夫の妙が要るのはそのせいだ。p.42

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水上勉さんのお父さんは宮大工だった。宮大工、西岡常一『木のいのち木のこころ』の言葉が思い浮かんだ。宮大工の口伝には「神仏をあがめずして社頭伽藍を口にすべからず」とあるそうだ。宮大工の木材への向かい方も、典座の食材への向かい方と同じものが感じられる。

癖というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。p.22

 

木を生かす。無駄にしない。癖をいいほうに使いさえすれば建物が長持ちし、丈夫になるんです。私らはそのために技術を伝え、口伝を教わってきたんですからな。もう少しものを長い目で見て、考えるということがなくてはあきませんな。今はとにかく「使い捨て」という言葉が基本になってしまっているんですな。p.24

『木のいのち 木のこころ』より