かぐや姫の物語

一人で映画「かぐや姫の物語」を見てきた。奧にしまいこんでいたものを強く揺さぶられたのか、その夜映像が蘇ってきてカタカタと泣いた。おまけにすっかり体調を崩して風邪までひいた。

この作品は「風立ちぬ」と見事に対をなしている。
男女という互いに遠く離れた向こうの岸から橋がかけられている。。そう感じられた時にいつも深く感動する。

高畑勲監督は、滅多に居ない方の一人だと思った。

私は普段テレビも見ないし、雑誌も読まないので、たまに見ると強烈なインパクトを受けます。最近びっくりしたのは、女性のおっさん化。。これ男女逆にしたら、セクハラで即うったえられそうだ。。と思ったことが何度かありました。また先日水道橋博士がラジオで「女装したい」と。。男性のおばさん化の試みも様々に生まれていているに違いないのだな!と思ってます。

河合隼雄さんが、「とりかへばや物語」についての文章で、今の日本社会で女性の男性化はかなり成功しているけれども、男性の女性化はまだまだというようなことを書いていたと思います。(うろおぼえです)2つの対立的要素を自己の中に調和融合させることは難しい、けれどもその難しい道の先にはもっと深い人間理解があるのじゃないか。。

私は2つの映画の共通テーマは、強烈な「あこがれ」だと思いました。「風立ちぬ」は「空」へ、「かぐや姫の物語」は「大地」へ。象徴として分けると、「空」「宇宙」などは男性的な志向で、「大地」は女性的志向です。

周囲で(夫ふくめ)男性が「風立ちぬ」を絶賛し、女性(私ふくめ)が「かぐや姫の物語」を絶賛し、どちらもその反対にはちょっと思い入れできない部分を残すという現象を見かけます。我が家は夫は「風立ちぬ」を独りで、私は「かぐや姫の物語」を独りで見に行ったのはある意味正解だったかもしれません。

女性のおっさん化がかなり進んでいることに驚いたのには触れましたが、本当の意味での豊かな統合は私自身もそうですがまだ十分に実現されていない。「かぐや姫の物語」はそこをついた作品だったと私は思いました。
あなた達は、男性的社会への同化に成功し、または失敗し、または前時代へ後戻りしようとしていますが、
山河自然、本来の力の源泉を見失っちゃいませんか?
その力をもって生きることを忘れちゃいませんか?
とたぶん、映画館で一人一人が問われたようなのだと思います。そしてその問いかけに呼応するものを持っていたのは、多くが女性ということかもしれません。

風立ちぬ」もそういう視点で見てみれば、創造のエネルギーの源泉は「十歳の少年の心にあり」というメッセージ。それに呼応したのは、「少年の心」を胸に秘めたその多くが男性だったということかもしれません。

どちらも子どもの心の持つ輝きやエネルギーです。。両監督が同じものを描き出したことに心動かされる。

とにかく「かぐや姫」が最後に統合を経験してくれたのは、私自身にとっては本当によかった。